竜の目覚め

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竜の目覚め

 フィンクの日課に、男のお世話というものが加わった。相変わらず動かないけれど、声をかけると薄ら目を開く気配がするし、水を流し込めば飲んでくれる――ちゃんと、生きている。フィンクの食事についてくる味のないスープも飲ませてみたら、ちょっと嫌そうな顔になってしまいフィンクは焦った。  男の世話をし始めたフィンクを、見回りに来る兵士たちはニヤニヤと見てきた。「化け物同士、仲の良いことだ」「無駄なことだ、どうせそのうち力尽きる」と声をかけてくることもある。今まで、フィンクが話しかけてもほとんど答えることがなかった彼らから声をかけてきたので、フィンクは嬉しいと思いたかったが、どうせ力尽きる、という言葉は悲しくなった。  朝起きて、昨日のうちに用意した服を着て、という毎日の繰り返しに、男の体を清潔にすることが加わった。フィンクが母という人からもらった琥珀の石は、水がなくても身を清めてくれるすごい力を持っている。自分の顔を洗うくらいならもったいなくて使えないのだが、自分よりも大きな男の体を支えることもできないので、この今が一番、石は役に立っているかもしれない。もしかしたら男が水を飲んだりしているのも、この不思議な石が手伝ってくれているのかも、なんて思う。  何度目かの朝、男に口移しで水を飲ませたところで、ぱちりと男の目が開いた。 「あ……あーっ!! 起きたっ、おはようございます!」  この頃、男が静かに眠れるようにと思って朗読は小声にしているので、声も小さくなってしまったけれど。男の目の色は、綺麗な琥珀色――フィンクの大事な腕輪の石と同じ、美しい色だった。寝顔も男らしく整った顔立ちをしていたのに、目を開けたら更に格好良くて驚いた。 「あのっ、おれはフィンクっていいます!」  男の枕元で膝をつき、顔を覗き込むと男の手がゆっくりと動き、フィンクの頬に触れてきた。大きな手のひらに触れられるのは、気持ち良い。くすぐったくて、思わずふふっと笑ってしまう。 「――神……が、いる」  男が口を開いた。低く掠れてはいるけれど、でも耳に心地よい素敵な声。神がいる、と言われてフィンクは自分の世界を見回した。男はまだ辛そうではあったけれど、名残惜しそうにフィンクから手を離し、ゆっくりと上体を起こす。フィンクの小さな世界をぐるりと見回して――途端に、険しい表情になった。 「なぜ、神手(ガイド)が檻に閉じ込められているのだ」  そう低く唸る。何について怒っているのかフィンクには分からないが、フィンクの世界が小さいことに驚いているのかもしれない。 「おれの世界は、ここだけなので……あの、良かったら寝台を使ってください。お水、もっと持ってきますね」  フィンクの中で、一番の安全地帯でもある寝台なら、きっと男も安心することができるだろう。安心したら、今度はお腹がすくに違いない。実は、男がいつ腹ペコで目を覚ましてもいいように、夕食に時々ついてくる小さな干し肉と干した果実をせっせと残していたので準備万端だ。フィンクは鼻歌を歌いながら用意を始めた。タイミングが良いことに、先ほど食事が運ばれてきたのでスープもパンもある。 「お腹、空きましたよね。良かったら、こちらも召し上がれ! ……あ、先にお水を飲みますか?」  男は簡素なテーブルの上を見て、目を見開いた。少しふらつきながらも、男はとうとう立ち上がる。その背の高さ、姿勢よく堂々とした佇まいにフィンクが目を奪われていると、男の顔は先ほどからまた少し、変化していた。どことなく悲しそうに見える。 「神手――いや、フィンク殿。まさかとは思うが……これが、普段の貴方の食事なのだろうか」  フィンクは良いことをしたつもりだったので、食事を用意したことで男がなぜ悲し気な顔をしているのか、やはり分からない。もしかして、男は外の世界――物語に描かれるような世界の住人なのだろうか。そうしたら、確かにフィンクの朝ごはんはちょっぴり寂しく見えるかもしれない。 「ごめんなさい、おれの世界の朝ごはんは毎日こうなので……あ、でも干し肉! 干し肉は夜に、時々しか出ないので、残しておいて良かったです。朝から干し肉を見たら、幸せですよね」  世界、と男がフィンクの言葉を繰り返した。男の呟きを聞いているうちに、彼の名前を知らないことに気づく。フィンクは己の名前と、物語に出てくる登場人物の名前しか知らなかったので、教えてもらえるだろうかと急に不安になった。物心がついた時から、時折見回りの兵士たちに名前を尋ねても、どの兵士たちも嫌そうな顔をして無言を貫いてきたからだ。もう少ししてから尋ねようと思ったのに、口が勝手に開いてしまう。 「……あの、いやだったらごめんなさい。あなたのお名前を、聞いてもよいですか」  男が、あの綺麗な琥珀色の眼差しをフィンクへと向けてくる。答えが返ってくることには期待をしないでおこう。こちらから問いかけたのに、相手がどう反応するのかが怖くなり、やはり聞かなければ良かった――そう後悔し始めた時。「エルヴァルト・ハーウェインという。名乗るのが遅くなった」と、男が微笑を浮かべて返してきた。 「エルヴァルト……ハーウェインさま。長いお名前なのですね! 格好いいなあ」 「親しい者からはエルと呼ばれているので、貴方もそう呼んでくれたら嬉しい。敬称も不要だ」  そう、男――エルヴァルトが続けたのをほどほどに聞きながら、フィンクは「エルヴァルト……さま」と、呟き始める。新しい名前だから、略すのではなく、そのままの名を頑張って覚えたい。 「それより、今すぐにでもここから貴方を連れ出したい。こんな粗悪な……神手がいて良い場所ではない。神手がこんな酷い扱いを受けていたとは。カディナには神手も行使者(センチネル)もいなくなって当たり前だ。異種族を迫害し、神手を地下に閉じ込めて――どうせ、力だけは我がもの顔で使うつもりだったのだろう」  エルヴァルトが、たくさんしゃべった。どんどんと元気になっていくみたいで、嬉しい。最初はニコニコとしていたフィンクだったが、男の話を理解しようとして、頭の中が疑問符だらけになっていった。 「エルヴァルトさま、『神手』とは何でしょうか? おれの持っている本には、出てこないです」  また、思い切って質問してみる。エルヴァルトが格子の向こうを気にしたので、「見回りならまだ来ませんよ」とフィンクは教えてあげた。 「朝ごはんを持ってきたら、お昼のスープを持ってくるまで誰もきません。おれと言葉を交わすと、けがれるって言って誰も近づいては来ないので、安心してくださいね……だから、ここと、あの棒の向こう側は、世界が違うんだと思います。あ! エルヴァルトさまは、おれと話していても大丈夫ですか? ……けがれるって、元気がなくなるってことなのかなと思っていて」  エルヴァルトの精悍な顔が歪んだと思ったら、近づいてきたエルヴァルトに抱きしめられて、フィンクは大いに慌てた。こんな風に抱きしめられたことなんて、フィンクには経験がない。しかし、服越しに伝わるしっかりとしたエルヴァルトの身体や息遣いを感じているうちに、こちらまでぽかぽかとした気持ちになってくる。  物語の中で、王の子と人の姿になる竜は、嬉しい時や悲しい時に抱擁する場面がある。エルヴァルトに聞こうと思ったのに、口を開こうとしたら、ぎゅう、とお腹が代わりに音を出した。「お腹が鳴っちゃいました」と照れ笑いすると、身体を離した後、少し怖い顔をしていたエルヴァルトが、目を丸くした。
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