優しい場所

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優しい場所

 いつの日か、エルヴァルトと共に朝の散歩から帰ってきた時以上に、竜族の城は張り詰めた空気になっていた。衛兵から文官、使用人に至るまで城前の大広場で空を見上げている。王であるエルヴァルトの黒い竜体とフィンクのことに気づいた者たちが、一斉に空を見て歓声を上げた。  一度孤を描いて減速してからゆっくりと地表に降り立った竜と、その腕の中にいるフィンクに、真っ先に駆け寄ってきたのはヨアだった。 「ふぃ、ふぃんく……さまっ、ごぶ、ごぶじで……?」 「ヨア、おれは怪我も何もしていないよ。エルヴァルト様やジルトさん、みんなが来てくれたから」  よ、よがっだ、と小さい竜族の少年は号泣しながら、ぎゅう、と自分自身の服を強く掴み、フィンクに向かって頭を下げた。そのヨアの顔から、ぽたぽたと大粒の涙が零れて地面に生えている草へとあたる。 「ヨアが、知らせてくれた。あの商人と一緒についてきた下男らしき者が、フィンクを連れ去ったかもしれないと」  エルヴァルトも人の姿に戻ると、フィンクの隣でそう言って安堵の表情をした。ここまで、自分のことを心配してくれる人たちがいること。フィンクがとっくに諦めていたものを、必死に与えてくれる者たち。 「ありがとう……おれを、助けてくれて」  みんながいるのに、エルヴァルトがフィンクを抱き寄せてきた。恥ずかしいですよ、と返したかったけれど、そんな余裕もなく、ヨアにも負けないくらい涙が出てきて――フィンクはエルヴァルトの腕の中に隠れるのに、必死だった。 「エルヴァルトさま……じゃなくて、エルヴァルト」 「言い直したな」  しばらく騒がしかったものの、夕食を取り入浴を済ませたあたりでようやく落ち着いた。いつも通り、寝衣を着てエルヴァルトの寝室に入り込む。エルヴァルトが、王として一日の終わりの仕事――祈りを捧げ終わったところを見計らって声をかける。竜たちの王は、柔らかな笑みをフィンクへと向けてきた。 「獣人たちのこと、カディナに申し入れてくれると聞きました。おれ、カディナの王の子なのに何もできなくて……」  そのことか、とエルヴァルトが苦笑する。フィンクたちが城に戻って間もなく。フィンクを腕輪の力で城から連れ出した張本人である、獣人の少年を連れたジルトが戻った。その扱いについてどうなるのか、フィンクはハラハラとしていたのだが、フィンクの『話があるのなら城で聞く』という約束を、エルヴァルトは叶えてくれた。 「自分たちの、居場所……かあ」  獣人の少年は最初、硬く口をつぐんでいたものの、フィンクが話しかけると少しずつ返事をするようになり。それから、「俺たちが求めているのは、もともと生きていた場所にそのままいたいということだけだ」と口にした。しかし、それを一蹴したのは、エルヴァルトだった。「どんな形であれ、その場所を守れなかったのなら去るのみだ」と。 「あれらに同情をする必要はない。結局はカディナ王の子であるフィンクを人質として利用しようとすらしたのだ。連中の愚かさは救えんが、こうなった経緯も結局は私のあの時の不甲斐なさに行きつく。……申し入れは、今回だけだ。同胞が傷つけられ、幽閉されたことへの報復の一環の、ついで」 「……職人さんたちを、強奪しちゃうのですよね」   そうだ、とエルヴァルトが悪戯気な笑みを浮かべた。それから「おいで」と言われて、寝台に腰かけたエルヴァルトの隣に座ろうとして――腕をとられてしまった。そのまま、男の腰のあたりを跨ぐように座らせられてしまう。すぐに避けようとしたフィンクだったが、番いの証に触れられると、体がぞくぞくとしてしまう。 「エルヴァルトっ」 「フィンクに本当に傷がないか、確かめなければ」  そう返しながらも、フィンクの寝衣の上部分をあっけなく乱されて、エルヴァルトが容赦なくフィンクの薄い胸にも口づけを繰り返してくる。フィンクは無意識に男の背を強く抱きしめてしまった。 「……エル、エルヴァルト……ま、待って」 「本当に待ってほしいのなら、先ほどの船の上の時みたいに力を込めて言ってみたらどうだ。あれは、間違いなく神手の力だった」  そんなこと言われても、とフィンクは半泣きになる。それでも、必死に目に力をこめて、「お願いだから、待ってください」と涙目で繰り返した。 「あの、渡しそびれる前に……これ、お渡ししたくて」  エルヴァルトに渡すつもりだった腕輪。  男の膝から逃れて何とか隣に座りなおすと、フィンクは隠し持っていた小さな箱を手にし、中から白銀色の月石がついた腕輪を取り出した。 「おれ……エルヴァルトに出会えて、何もかもが変わりました。貴方がいるところが、おれの居場所なんです。あの……あい……して、います」  腕を、とフィンクが続けると、無言のままエルヴァルトが片腕を出してくる。その手首に必死に付け終えたところで、フィンクの額にエルヴァルトが口づけてきた。額の口づけは、竜の最大限の親愛と誓いを示す仕草。それから、フィンクが付けた腕輪の石をまじまじと見て、エルヴァルトは柔らかに微笑んだ。 「これ以上ないほど、フィンクを愛しく想う。フィンクと共にいると、宝ものが増えていくばかりだな」 「それっ、それ分かります! おれもなんです」  思わぬエルヴァルトの言葉にフィンクが前のめりになると、エルヴァルトは声を立てて笑い、フィンクに口づけてきた。そのまま、抱き込まれて寝台の上へと連れていかれる。 「青年らしくなってきても、フィンクの可愛らしいところは変わらないな。勇敢が過ぎて無謀なことをしないか心配だが……フィンクが獣人族に体当たりするとは。肝を冷やしたぞ」 「あれは、自分でも咄嗟で……怪我をさせなかったか心配です。商人さんも無事で良かった」  自分に害をもたらした相手を心配するとは、とエルヴァルトが苦笑しながら返してくる。それから――また深く口づけられて、シーツの上でフィンクは身じろぐ。 「っ……エルヴァルト……、まだ話が」 「ちゃんと言えるようになってきたな」  そう楽しそうに笑うと、エルヴァルトはもう一度フィンクの額に口づけて、寝衣を羽織らせると上掛けをかけてきた。エルヴァルト自身は、横向きで肘をついて寝そべっている。フィンクもエルヴァルトと向き合うように姿勢を変えると、いつもよりもさらに距離が近く感じられる。 「今日はしっかり休んだ方が良い。とにかくフィンクが無事で良かった」  そう続けた後、エルヴァルトの大きな手が、上掛けの上からフィンクの背中を抱きしめてくる。エルヴァルトの、服越しでも分かる逞しい胸元に顔を寄せてみた。ゆっくりと脈打つエルヴァルトの心音を聴いているうちに、フィンクは興奮していたのが段々と落ち着いていくのを、感じる。 「……こんな、優しい世界があるなんて……おれに、許されていいのでしょうか」  眠気にいざなわれながら、エルヴァルトに頬をすり寄せてみる。そんなフィンクの頭を、エルヴァルトは子どもにするみたいに撫でてきた。 「私が、無理にでもあの時フィンクの手を離さなければ……」  エルヴァルトは、時折その言葉を口にする。自分の呟きのせいだと気づいたフィンクは、慌てて上体を起こした。エルヴァルトはといえば、驚いたのか琥珀色の瞳を瞬かせている。 「でも、エルヴァルト。物語の王の子も、竜と離れ離れになったり、再会して一緒に旅をしたりするんです。おれはきっと、あの時あのままエルヴァルトの手を取っていたら今、ここまでエルヴァルトたちと一緒に過ごす日々を大切に――愛しく想えたのか、分かりません。もしかしたら、自分でも嫌になるくらい子どもっぽいことばかりをして、今よりもっと皆さんを困らせたかもしれない。実際、記憶を失っていた間のことは思い返すのが……」 「フィンクが毎日読んでいたというあの本の話か。だが、あの話もいい加減王の子とやらに厳しすぎやしないか? 無二の存在であるのなら尚更、できるだけ苦難から伴侶は遠ざけたいものだ」  フィンクが『忘却の水』によって自身の記憶が抜けてしまっていた間に、散々エルヴァルトにはあの物語の話を繰り返してしまった気がする。それにしても、物語相手に「理解できん」と憤るエルヴァルトが面白くて、フィンクも声を上げて笑ってしまった。 「それでもやっぱり、おれはあの物語が大好きですよ。あの物語のお蔭で、黒い竜が一等好きですから」 「まあ、そういうことなら……」  フィンクの返しに、まんざらでもない表情で返してきたエルヴァルトが愛しくて。寝そべっているエルヴァルトの額に口づけると、笑って見せる。 「おれはずっと、貴方の傍にいます」  どんな、姿になっても。自然と出てきたその言葉は――物語にも出てこない、フィンクの心からの想いだった。
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