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白銀の羽
フィンクの目の前で、力なく地面に倒れ伏している彼らを、得体の知れない闇がゆっくりと蝕んでいく。
「あ……いやだ、やめろ……!!」
誰か、無事な者はいないだろうか。ジルトの青い髪――それから、エルヴァルトの姿を必死に探し始めた。
「エルヴァルト……!」
闇は、眠っているのかじっと伏せている大きな黒い竜をも蝕み始める。駆け付けたいのに、地面に足を縫い留められたみたく、まったく足が動かせなくなっていた。じわじわと、エルヴァルトの鱗よりも暗い色の闇に覆われていくその姿に、フィンクは我を忘れた。
ふわりと、身体が舞い上がる。自分が動かしているのは――翼だ。自分でも分かるが、せいぜい小鳥といった大きさ。それでも必死に翼を羽ばたかせながら、フィンクはエルヴァルトのもとへと近づいていく。
(やめて……竜族のみんなは……エルヴァルトは、とても大切なんだ。おれから、奪わないで)
黒い竜は、人の姿をしたエルヴァルトへと戻っていく。
自分に持ち得る、すべての力を。しかし、人としての声にはならない声で。必死にフィンクが叫ぶと、闇が少し、後退ったように見えた。自分にある勇気をかき集めて、闇の上に舞い降りる。エルヴァルトを救い出したくて、フィンクは小さなくちばしで必死に闇をつついた。闇は嫌がっているのかうねりながら、少しずつエルヴァルトから離れていく。
(おれからつつかれるのは、嫌なのか?)
活路を、見出せたかもしれない。ますます力強くつついたり、闇をくわえて捻ったりすると、ずるずると闇が動き始める。闇は大きくうねり、それから――フィンクを取り込もうとし始めた。中空へと一旦逃れながらも、小鳥の姿になったフィンクは大きな声で鳴いた。少しでも、闇の勢いを止めるために――祈りを込めて。闇はどんどんと退き、ようやくエルヴァルトの姿が再びはっきりと見えた。意識を失っているのか目は覚まさないが、見た目には怪我などは見えない。
(良かった、もう少し……!)
より遠くへ、追い払わなければ。高く鳴きながらフィンクが森へ向かうと、闇が動くのが分かった。闇はフィンクについてくるものの、飛ぶことまではできないらしい。羽ばたき続けつつも、そのことにほっとしたフィンクだったが、ふと目の前が翳って動揺する。翳りの正体は、あの肥えた竜に似た生き物だった。竜もどきには大きな双翼が生えていて、小さな鳥の姿をしている今のフィンクにはとにかく巨大に見える。
(どうしたら……!)
物語の主人公――王の子は、鳥の姿になんてならなかった。どう対処すればよいのか、物語は教えてくれない。しかし、今ここでフィンクが逃げ出したら、下で蠢いている闇が再び、エルヴァルトたちの方に戻ってしまうかもしれない。怖くて怖くて、全身が震えそうになるのを、堪える。閉じたくなる目を大きく開いて、高く鳴く。ニヤリと、竜に似た生き物が、笑った――。
フィンクを襲ってきたのは、鋭い爪だった。耐えられず目をぎゅっと瞑ってしまう。しかし、強い風を受けてフィンクの体があっけなく弾き飛ばされかけたのと、不気味な獣の悲鳴が聞こえたのはほぼ同時だった。
強い風を受けて飛ばされながらも、何とか平衡を保って鳥の姿のままのフィンクは更に高く舞い上がった。こうやって見下ろすと、身が竦むほどに世界が広く見える。眼下では、あの竜に似た闇の生き物を押さえかかる黒く大きな――竜が見える。
(……エルヴァルト!!)
大きな竜が、魔物に喰らいつく。魔物は大きく体を捻って一旦竜から逃れると、フィンク目指して飛ぼうとして――下から翼に向かって咆哮を上げてから喰らいついてきた竜によって地へと引きずり降ろされていく。黒い竜の咆哮に、幾つもの声が応えた。
(みんな……みんな、無事だった?)
戦う黒竜に赤や白、そして青い竜が加勢に入っていくのが見える。竜に似た魔物は死にものぐるいで竜たちの牙をすり抜けると、恐ろしいほどの速さでフィンクへと向かってくる。しかし、すぐに黒い竜が体当たりして捕らえ、魔物の翼がフィンクに届くことはなかった。致命傷を負ったのか、断末魔の悲鳴が上がる。
怖いけれど、しっかりと結末は見届けなければ――そう思い、フィンクはそろそろと舞い降りていく。魔物の血なのか、黒い粉を噴き上げながら魔物は消えた。
(良かった、みんな生きてる……!)
人の姿に戻ったエルヴァルトを中心にして、竜族たちが何やら周囲を探し始めたのを見やる。フィンクもすぐに駆け寄りたいのに、小鳥の姿から元に戻れない。小さな体をさらに小さくしながら、フィンクは高い木の上に留まった。
「――フィンク! どこにいる?!」
自分の名を、エルヴァルトが呼ぶのが聞こえる。しかし、答えたくても言葉を返すこともできない。それに、自分は鳥だと思ってはいるけれど、もしこれが――魔物と同じ姿だったら、と思うと……途端に、応える勇気が出なくなる。そんな時。広くなったフィンクの視界に、竜族たちがいる方向とは別なところで蠢くものが見えた。
(……あれは?)
人影――いや、姿もはっきりと見える。
「フィンク! いたら返事をしてくれ!!」
草木をかき分ける音がして、フィンクがいる枝の真下あたりからフィンクの名を呼ぶ、エルヴァルトの声が聞こえてきた。条件反射で返事をしたものの、『ピッ!』といういかにも鳥、という声しか出せず自分が情けなくなる。しょんぼりとしていると、こちらを見上げてくるエルヴァルトと目が合った気がした。
「もしや……フィンクか?」
慌てて葉っぱの影に隠れる。ちら、と顔を出して下を見やると、エルヴァルトはまだこちらを見上げ続けていた。
「フィンク、いるなら聞いてほしい。フィンクが贈ってくれたこの月石の腕輪が、私を救ってくれた。何度も、フィンクが私を呼ぶ声が聴こえた――それが、闇から私を救い出してくれたのだ。フィンクこそが私の最高の伴侶だ。……どんな姿になっても、傍にいると誓ってくれただろう」
手を、差し伸べられる。覚悟を決めて飛び降りようとしたフィンクの視界に、また何者かが動くのが見えた。
(あれは……川に落ちた商人さん)
人の姿をしていた時には、絶対に見えなかったと思う。だが、今のフィンクの目には川に落ちてしまったあの商人が、小さな袋から何かを取り出し、思いっきり投げて――その先に、闇が集まり、蠢くのが見える。あの闇は、危険だ。警戒の意味を込めて、フィンクはまた必死に鳥の声で騒いだ。フィンクの様子に気づいたエルヴァルトが、異変に気づいてくれることを祈って。商人によってけしかけられた魔物が、再び動き始める。
(おれなら、止めることができるかも)
鋭い爪も、牙もないけれど。ちらりとエルヴァルトの姿を目に留めてから、フィンクは思い切って飛び立ち、商人の方へと真っすぐ向かった。空からなら、すぐに辿り着くことができる。商人の後ろから、なるべく静かに――そうして、思いっきりその頭へと突っ込んだ。「痛い!」という悲鳴が上がる。商人の頭に着地すると、フィンクは商人の短い髪を短いくちばしで引っ張った。何とか魔物をけしかけようとするのを、止めなければならない。魔物は商人の悲鳴に動きを止め、様子を窺って――それから、一気に大きく広がりを見せた。
「うわっ、こっちに来るな!!!」
商人が叫ぶ声で、フィンクは顔を上げた。押し寄せる波に変じて、闇はフィンクたちの頭上から襲い掛かってくる。商人は頭に乗っていたフィンクを手で容赦なく払い落し、自身はあの小さな袋を放り投げて脱兎のごとく逃げ出す。体が軽いお蔭で痛みは思ったよりもなかったものの、上手く飛べずに地に落ちたフィンクに、魔物は容赦なく襲い掛かってきた。今度こそ、取り逃しかけた餌を見つけたとばかりに。
(苦しい……)
まだ、子どもだった頃。フィンクに食事を運んできた兵士たちによって、顔を洗面器に押し付けられてとても苦しかったことを、唐突に思い出した。焦って、呼吸をしようとして――甘くて喉が焼ける液体が、フィンクの身体へと入り込んでくる。声を出したくても、もう呼吸することすら難しい。
「――ク!!!」
黒い液体の中では、はっきりと外からの音すら、聞き取ることは難しい。それでも、エルヴァルトに名前を呼ばれた気がして――フィンクは、最後の力を振り絞って、そちらへと手を伸ばす。その手は、人の形のものへと、戻っていた。
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