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腕輪が隔つ世界
「エルヴァルトさまは、お腹すいていませんか?」
自分の空腹をごまかしたくて、フィンクは笑いながら男に尋ねた。
「いや、私は大丈夫だ。……この食事は、やはり貴方のものなのだな」
悲しげな顔。エルヴァルトの分がないことを、悲しんでいるのだろうか。おたおたとしながらも、エルヴァルトには椅子代わりに寝台を勧める。ようやく座ってくれたエルヴァルトに、パンと干し肉をもう一度勧めたけれど、エルヴァルトは悲し気に笑っても、受け取ってくれなかった。
「まず、貴方が食事を。貴方が食べ終わったら、話をさせてほしい」
「ええと……はい。あの、隣で食べたら、ご迷惑でしょうか」
迷惑なものか、とエルヴァルトが微笑みながら即答してくれた。寝台で食べるなんて、初めてだ。椅子に皿を乗せて、寝台に近づけると、エルヴァルトの隣に座ってみる。
こんな風に、フィンクを見て、嫌な顔や悲しそうな顔をしないで話してくれるのは――身体がくっついても怒鳴ったり悲鳴を上げたりしないのは、エルヴァルトが初めてではないだろうか。
それがとても嬉しくて、エルヴァルトの近くにいたかった。急いで食べ終えると、ふう、とフィンクは満足した。今日は、昨日の朝のパンよりちょっと柔らかかった。スープにも、いつもなら入っていないきのこのカケラが入っている。干し肉は悩んだけれど、エルヴァルトが食べたくなるかもしれないと思い、丁寧にしまい込んだ。
フィンクが食事をしている間、エルヴァルトはただフィンクを見ていた。フィンクが食べ終えると、すぐにフィンクの腕を掴んでくる。フィンクが驚いていると、「まず、これを受け取ってほしい」とフィンクの腕に、腕輪を嵌めてきた。それには飾り石がついていないが、腕輪自体に細工が施されていて美しく見えた。
「あの、これは……?」
「この腕輪には、我ら竜族の力が籠められている。……貴方が既に身に着けている、その石と似たものだ。それは何者かの――恐らく、貴方の祖先の加護を受けた神石。こちらは、死んだ同族の骨を削り、数多の祈りを捧げた神具。決して身体から離さないことを、約束してほしい。これから先、何かあってお互いが遠く離れても、貴方が願えば私の許に飛べる。二人で使えば遠くには行けないが、ここから抜け出すことくらいはできるだろう」
抜け出す、とフィンクはおうむ返しにしてから首を傾げた。フィンクの世界は、この世界がすべてだ。「おれの世界は、ここだけですよ?」と返すと、エルヴァルトはまた物憂げな顔になり、ゆっくりと首を左右に振った。
「違う。貴方は本来、こんな惨い扱いをされてはならない存在だ」
「でも……おれがここにいないと、みんなに迷惑が」
その時、男の琥珀色の瞳が、今までよりも薄くなったように感じた。怒っている――それは分かるが、どうして怒らせてしまったのかが分からない。男は寝台から降りて立ち上がると、「今すぐ、ここを出なければ」と繰り返した。
「貴方は、『神手』だ。『神手』は、異能を行使する者――『行使者』が負うものを癒せる、唯一の存在。『行使者』に替えはあっても、『神手』の替えはないしその国に必ず一人生まれるとも限らない。現に私の知る限り、生存する『神手』はほんの僅か。我ら『行使者』は『神手』がいなければ、異能を使い切れば死ぬばかりだ。……貴方が、私を救った」
「おれが、あなたを?」
男に頷き返されて、フィンクは顔が真っ赤になった。エルヴァルトの話すことは難しいが、もしかして自分が初めて人の役に立てたのではないかという、興奮で。特別な力なんて、自分にあるはずがないと思うのに、そんな自分でも良いのだろうかという、初めての期待。
「あれ、でも、どうしてエルヴァルトさまはここに? もう、死んじゃうんじゃないかって毎日心配していて……」
男の手を取ろうとして、ふと聞かなければいけないことを思い出した。「ああ」と男は相槌を打つと、続けて口を開いた。
「この国は、異種族の者たちを迫害している。今まではそれなりに隠そうとしていたが、とうとう隠すことをやめたらしい。命からがら逃げてきた者からの話で、迫害の状況の苛烈さを聞き、急いで飛んで来たのだが―― 脱出を希望する最後の一団を連れ出したところで、交戦となりかけた。それにしても、滑稽だな。竜を祀る国であるのに、その神竜の子孫である私を化け物呼ばわりとは」
「それは……本当にごめんなさい」
フィンクの知らない外の世界の話は、物語に出てくる恐ろしい場面に似ていた。たった今まで嬉しいことでいっぱいだったのに、そんなことも知らずにいた自分が恥ずかしくなる。
エルヴァルトは、最後の力まで振り絞って、戦って――力尽きかけたのだろうか。
「……その、最後の人たちって……」
「意識が消失した後は分からないが、恐らく無事に逃れたとは思う。今はとにかく、貴方を安全なところに連れ出さなければ。この地で助けが必要な者にはまた機会を見て、ということになるだろう。侵略ではなく奪還するのは難しい」
お気に入りの本。こっそり取ってある干し肉。そして母からもらった、琥珀色の石がついた腕輪――それが、今までフィンクにとっての何より大切なものだった。けれど、エルヴァルトから聞いた話が、閉じられていた自分の中の、何かを開いた――そんな気がする。エルヴァルトは、物語の竜と同じだ。戦う者であり、フィンクをどこかへ連れて行ったあと、また一人でここに戻ってきて戦うつもりだ。
エルヴァルトがくれた腕輪は、二人では遠くに行けないという。
フィンクの手を繋ぐと、エルヴァルトは難しい言葉を詠唱し始めた。低いエルヴァルトの声が紡ぐ、言葉たちの美しさ。ふんわりと風が巻き起こる。だが、異変を感じたのだろうか、いつもなら昼食時までやってくるはずのない兵士が近づいてくる足音に、フィンクは気づいた。
「エルヴァルトさまは、たいせつ……」
フィンクのまだ短い人生の中で、初めてフィンクに優しく触れてくれたのに。また、数日前と同じくフィンクの知らないところで力尽きかけたら――何より、遠くに飛ぶことができず、すぐに捕まってしまったら。フィンクの大好きな物語の中にも、王の子と竜が二人で逃げ出そうとしたら失敗し、竜が酷い目に遭う場面が出てくる。
一緒に行けるのでは、という期待を捨てるのは簡単だった。
エルヴァルトの詠唱が終わる、その間際。フィンクは今までになく強く、『エルヴァルトさまを、遠くへ。安全なところへ』と願った。光に包まれる。その瞬間に、エルヴァルトから手を離す。フィンク、と最後に名前を呼んでもらえたのが、嬉しかった。
「大丈夫。この腕輪があれば、いつでもエルヴァルトさまのところに行けるんだよね。これがあれば、エルヴァルトさまが助けたかった人たちを内側から動いて助けられるかもしれない……そしてちゃんとお返ししよう」
自分は、大事な選択をした。そう思うのに、一人ぼっちに戻ったフィンクの世界は、何か物足りなく悲しく感じてしまう。
「――これが……寂しい、なんだ」
物語で、竜と王の子が離れ離れになった時――王の子が呟いた『寂しい』を、フィンクはようやく理解した。この場所で、自分ができることがあるかもしれない。それを頑張れたら、胸を張ってエルヴァルトのところに飛んで行こう。
「……おい! 化け物が消えているぞ!!」
「じょ、冗談だろう?! いくら化け物だからって、どうやって……」
兵士たちが二人、格子を開けて中へと踏み込んでくる。「あんな小さい窓から?」「鳥に化けて逃げたっていうのか?!」男たちはワイワイと騒いでから、不意にフィンクを見てきた――ぎょっとしながら。
「とにかくだ。化け物を逃がしたなんてばれたら、俺たちの首が飛んじまう。死んだことにしてしまおう」
そうだな、と男たちはお互いに納得をした体で、フィンクの世界から出ていった。
男たちは格子に再び鍵をかけて、あれこれと話しながら遠ざかっていく。
「エルヴァルトさまのところに、いつでも飛んで会いに行ける」
兵士たちがいなくなった後にそう呟くと、フィンクは寝台へと上がった。上掛け――柔らかな暗闇の中に、隠れてみる。前はそれで安心できたのに、『外の世界』のことを考えるとドキドキとする。
その日から、フィンクの世界は歪な形ではあるものの、少しだけ外へと広がり始めた。
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