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王の子と竜の出会い
「起きました! おはようございます!」
良かった、今日も声が出た。
鳥の声が聞こえるのと同時に起きて、今日も天気が良いことに気づき嬉しくなる。雨が降ると窓をきっちりと閉めなければならないからだ。小さな窓は、半地下にあるこの部屋と外とを繋ぐ唯一のもの。いつもは気にしないようにしているのに、窓を閉めてしまうと、気持ちが沈んでしまう。
小柄な少年――フィンクは立ち上がると、自分の体がまだ動くことを確認して、ホッとした。眠っている間は悪夢を見ることもある。今朝起きる直前まで見ていたのは、時折見るのと同じ夢だった。
「……黒い竜が、傷ついていた。大丈夫かな」
気を付けないと声はすぐに掠れて、出せなくなってしまうので、いちいち口にするのが癖になっている。どうせフィンクが何かを喚いていても、時折様子を見にくる見張りの人間たちは気にも留めない。フィンクにとっては、ここにいて、ひとり言を自由に話すことは当たり前なのだ。
申し訳程度に備え付けられた小さな鏡と向き合い、あちこちに飛び跳ねてしまった柔らかな髪を濡らして、整えながら顔も洗う。少しぬるくなった水の温度で、また一つ季節が変わったことを感じた。鏡に映ったのは、背を覆う程に伸びた白銀色の髪に薄水の目の色をした、不健康そうな少年の顔。
鼻歌を歌いながら、長い髪を自分で結わえる。昨日寝る前に用意しておいた服に着替えて、琥珀石が嵌った腕飾りを、もったいぶった手つきで身に着ける。早い朝のうちは見回りの人間もいない。お気に入りの物語を朗読する大事な時間を、フィンクは愛しんでいた。この部屋には、不自由がない程度には寝具類も服もある。
「王の子は竜と出会い、お互いにかたい約束を――」
未だに毎日読み込んでいる物語は、すっかりと擦り切れてしまい、紙がもろくなっているところもある。しかし、夢で見ることもあるくらい文章は頭の中に入っているので、つかえることなく少年は物語を読み上げることができた。長い物語なので、毎日少しずつ区切って読み進めている。今日は主人公が永遠の友となる竜と出会い、共に戦うことを誓う――フィンクが大好きな場面だ。
お気に入りの章を丁寧に読み上げたところで、水を飲む。そうしているうちに、朝食が運ばれてくる時間になる。今日は、どんな朝食だろうと想像してみた。
物語では、いくつもの美味しそうな朝ごはんも出てきた。物語の主人公である王の子は、人に変じることができる竜とともに、色んな国をめぐっていく。
とある国では、柔らかく焼かれたパンの真ん中に目玉焼きが乗っていて、色とりどりの野菜も添えられている。イモや肉がたっぷりと入った温かなスープと、牛の乳と卵から作ったデザートには、果物を甘く煮込んだジャムがかけられていて、それを思い出すだけでお腹が鳴ってしまう。
フィンクの現実は、朝も夜も硬いパンと。味がどこまでも薄く、ただのお湯に近いスープだけだ。少年に与えられた世界は、石よりも硬そうなもので作られた、格子の内側にあった。
それでも、フィンクは考えることを止めなかった。止めてしまえば――もう、何も感じることも出来なくなる気がして、怖かったから。それくらい、フィンクの生きてきた時間は毎日同じことの繰り返しだった。
しかし、今日はいつもの朝と違った。準備万端で行儀よく椅子に腰かけ、朝食を楽しみに待っていたフィンクの耳に、人の怒号が聞こえてきたのだ。あまりにも驚いて椅子から飛び上がりかけたフィンクは、胸をドキドキとさせながらも、格子へと近づいてみることにした。格子にあまり近づき過ぎると、見張りにきた兵士に怒られてしまう。だが、今の怒声はフィンクに向けられたわけではなさそうだ。足音を立てないように、こっそりと。なんなら、寝台にきっちりと畳んでおいた上掛けを被って、隠れたつもりになりながら。
ほとんど陽がささない薄暗いこの部屋に向かって、何かが引きずられてくる音が近づいてくる。
「おい。こっちには化け物がいるぞ」
「仕方がないだろう、もう他は手いっぱいなんだ。……同じ化け物同士、仲良くやるだろう」
違いない、と兵士たちが笑い合う。
「いっそ、この化け物の餌になればなあ、世話なんかしなくて済むのに」
『化け物』とは、フィンクのことだ。もっとずっと幼かった頃に数度会ったことのある、フィンクの母だという人以外は、みんな少年のことをそう呼ぶ。じゃあ、『化け物』とはなんだろう。物語には、とてつもなく大きかったり、怖い姿をしているものたちが『化け物』とか『魔物』として描かれている。
フィンクの部屋に向かって足音と、ひきずられる音が、より近づいてきた。怖くなったフィンクは急いで寝台の上へと逃げて、再び上掛けの中へと隠れる。この部屋には、身を隠す場所なんてどこにもない。怖くて仕方がない時は、寝台だけがフィンクの逃げ場所なのだ。
間もなくカチャカチャと鍵をいじる音が聞こえ出した。上掛けの中から、頑張って顔をほんの少し出すと、格子が開く。いつもは食事が差し入れられる小さな扉だけなのに、人が通り抜けられるほど大きく格子が開くのを、フィンクは久しぶりに見た。
格子のない、物語と同じ広い世界が、本当はあるのかもしれない。しかし、今はそんなことを悠長に考えている心の余裕がない。
兵士たちは声をかけあいながら、何か黒いものを運び入れた。フィンクに説明することなど当然なく、開けた格子をさっさと閉めて、遠くに行ってしまった。お腹が空いていたはずなのに、恐怖でそれもどこかへと行っている。ブルブルと震えながら上掛けの中から黒いものを見ていたが、それはどう見ても黒い髪をした、フィンクと同じ人に見えることに気づいた。
「……おとなの、人?」
フィンクは思ったことが口から出てくる。声が大きくなってしまったことに気づいて慌てて口を己の手で塞いだけれど、相手は身動ぎひとつしない。……近づいたら、突然『化け物』になったりしないか怖かったけれど、相手が動かないのは心配だった。
「良かった。化け物に、ならない」
しばらく待っても男は人のままで、ほっとした。それから相手の顔を見て、驚く。「きれい」そんな言葉が、すぐにまた口から出た。目をとじているけれど、こんなに整った容姿の男は見たことがない。上背もありそうだし、起きたらどんな目の色でフィンクを見てくるのか、とても興味が湧いた。男の耳だけはフィンクのものと違い、きつく尖っている――異種族であることに、フィンクは更に目を輝かせた。
全身真っ黒な、兵士たちが着るよりも立派な騎士服を纏った男を、とりあえず寝台に運ぼうとしたがフィンクの力では動かない。困り果てたフィンクは、とりあえず自分の服やら枕やらを取り出して、男が床で寝ていても痛くないように自分にできる最大限、整えることにした。
「髪の毛、長い……きれい」
頑張って男の頭を抱えると、結ばれていた男の髪が解けてしまった。それに慌てながらも枕の上に寝かせることになんとか成功する。とても重かったけれど、体温を宿した人に触れられたことが嬉しくて、ますますフィンクは張り切った。
「ええと……生きている、けど……目が覚めない?」
物語では何度も、竜と王の子はピンチを迎える。倒れた時、傷ついた時にしていることといえば――水だ。
「お水だ、お水」
急いで水を汲むと、再び男が伏せているところに戻る。また少し考えて、汲んできたばかりの水を己の口に含むと、男の唇へと押し当てる。少しずつ流し込むと男の喉が動いて嚥下していくのが分かった。
「良かった、水を飲んだら死なないって書いてあったから」
もう一度水を男に無理やり飲ませて、フィンクはふう、と額にかき始めていた汗を拭った。男も暑いかな、と思い襟元を緩める――と、鎖骨から首筋にかけて、うっすらと鱗状になった皮膚が見えた。
「……すごい。物語に出てくる竜みたい」
男がなんという種族なのかすら、分からないけれど。はやく元気になって、お話したいな。フィンクはニコニコとしながら自分の椅子に座ったところで、朝食を摂っていないことにようやく気付いたのだった。
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