水飛沫の少女

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水飛沫の少女

 ティロリロリ、ティロリロリ、ティロリロティラリラティラリラティ、  ト、ティ、ティーヤ、パ、パ、ティーヤ、パ、パ、ティーヤ、パ、パ、ティ、  ――― 軽快なリズムに耳を澄まし、目を瞑って曲の流れを感じ取る。  ティ、タ、ト、ト、タトタリテ、ティ、タ、ト、ト、タトタリテ、  ト、テ、ティ、ティ、タリレロティ、ト、テ、ティ、ティ、タリレロティ、  ――― 弾き慣れた感のある旋律が、直接鼓膜に流れ込んでくる。イヤホンの障壁がない、年代物のスタインウェイが響かせる鈴のような音。  タ、ティ、トー、タ、ティ、ト、ティ、タ、ト、タ、ト、タ、ティ、タ、ト  タ、ティ、トー、タ、ティ、ト、ティ、タ、ト、ターロ、ターリ、ター  ――― この子は、昔から指がよく動く。  低身長だが手は大きく、鍵盤上で12度の音程まで掌を広げることができる。じいさんもよく、そう言っていた。 「……お見事。指は全然衰えてないみたいだね」  曲が終わり、ホッとしたように鍵盤から手を下ろした青年に賞賛の拍手を送る。  これは心からの拍手だ。12年前に習っていた曲を、今でも弾けるどころか暗譜までしているなんて。ずっと弾き続けていた証拠だ。恐れ入る。 「先生のレッスンの記憶がずっとあったんで、なんとか自分で練習できてたんです。間違えずに弾けてよかった~」  そう言って大きく伸びをするこの青年の言う「先生」とは、じいさんのことだ。12年前、俺がじいさんに最後に会った日に、トルコ行進曲を習っていた子供。 「それで、またここに通ってくれるの? もうこの教室の講師は祖父の湖野律(このりつ)じゃなくて、孫の俺なんだけど」 「全然大丈夫です! 俺はただ、もう一度ピアノを習いたいだけなので。それに、昔先生が『孫の奏は弾かせたらすごく技巧(うま)い』って言ってたの覚えてますし」  演奏の腕と指導の腕はまるで別物だ。しかし、再び生徒になってくれるのは有難い。じいさんの記憶を残す存在と音楽をやれるというのも嬉しい。  彼は、経営者だったじいさんが死んでこの教室が一旦閉まったために中途半端になってしまったピアノを、大学生になって、好きなことをやる余裕ができた今、また習おうと決心してくれたのだ。じいさんの音楽が生きていることを、証明してくれている。 「じゃあ、これから週一でよろしく。今度来る日までに、君のレベルに合う曲をこちらでいくつかピックアップしておくよ。北川くん」 「よろしくお願いします。……そういえば、」  北川くんはスタインウェイの椅子から立ち上がると、俺の左手を興味深そうに見つめてきた。何を見ているのか?などとは野暮な問いだ。大方、このアクアマリンの指輪が気になるのだろう。 「奏先生は、もう結婚してるんですね」  こういうことを躊躇なく訊いてくるあたり、若いなと苦笑してしまう。結婚という言葉に、華やかで幸せなイメージしか持ち合わせていない証拠だ。俺ぐらいの年になると、左手の薬指に輝くものがあっても、あえて何も尋ねないのがマナーじみてくるものだ。 「してないよ」 「え? でも」 「してない。これは、お気に入りだから嵌めてるだけ」  北川くんは案の定怪訝な表情を浮かべたが、それ以上質問を重ねてくることはなかった。俺の作り笑いに、何かを察したのかもしれない。壁際の椅子に置いたリュックを持ち上げ、彼は帰る準備を始めた。  
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