prelude

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prelude

 ティロリロリ、ティロリロリ、  ――― 1つ上げる。  ティロリロティラリラティラリラティ  ――― また1つ上げる。  ト、ティ、ティーヤ、パ、パ、ティーヤ、パ、パ、ティーヤ、パ、パ、ティ ――― さらに3つ上げる。  ……駄目だ。  これ以上ボリュームを上げたら聴力に影響が出る。  携帯音楽プレーヤーのボタンをさらに連打しそうになる指を止めて、イヤホンを付けたまま客用ソファの背もたれに沈む。  耳に流れ込んでくるJ-POPの低い電子音は、上の階で幼い子供が懸命に生み出しているトルコ行進曲の音色をかき消すことはできても、その傍で手拍子をしながら旋律を導く老人のしゃがれた歌声を遮断することはできない。  腹の底から発生させている、重厚感のある声。ひどく聞き心地が良いのが憎らしい。  昼寝でもして意識を飛ばしてしまいたいが、嫌なものを避けようとして神経が研ぎ澄まされてしまってる今は無理だ。  やがて、小さくて可愛らしい足が木製のスケルトン階段を下りてくるのが見えて、俺は慌てて目を閉じる。挨拶を交わすのが面倒だからだ。  軽やかな足取りに続いて、ゆったりとした誰かさんの足がギシギシと床のフローリングを軋ませている。  ココアでも飲んでいくかい?  大丈夫、今からお母さんとご飯食べに行くから。  イヤホン越しのポップスをすり抜けて、そんなやり取りが聞こえてきた。  活発な足音が外に飛び出していったのを感じ取り、目を開けようとするより先に、両耳からイヤホンを抜き取られた。  反射的に、犯人の顔を睨め付ける。 『なーにをそんな仏頂面しとるんじゃい』  先ほどまで子供にピアノを教えていた老人……祖父がひょうきんな顔で尋ねてきた。  理由など、訊かずともわかってるくせに。 『別に。聞こえてくるクラシックが嫌だっただけ』  じいさんは俺の返答を鼻で笑った。 『じゃあ、何故いつも学校帰りにここに来る。ここは、ベートーヴェンもシューベルトもドヴォルザークも溢れるピアノ教室じゃぞ』  俺が座ってるソファは、クラシックレコードがびっしりと並ぶ棚に囲まれている。ソファ横にプレーヤーも設置してあって、聴き放題だ。  レッスンの順番を待つ生徒も好きなだけクラシックの世界に浸れるこの空間が、クラシック音楽を嫌う俺の放課後の居場所。  でも、俺にはここしかない。  ここしか居場所がない、ここが一番落ち着く。 『美味いウィンナーコーヒーを出してもらえるから』  嘘は言ってない。  しかし、じいさんの不気味に明るい瞳は、じっとこちらを見つめたまま。  逃げることを許してくれない。 『素直に言えばいいじゃろうが』  何をだよ、と速攻で返した。  何を言わせたいんだ、何を。  するとじいさんは、二階に上がって、振り子式メトロノームが1つ入りそうなくらいのサイズの箱を、大事そうに抱えて戻ってきた。  じいさんはそれを俺の目の前に置くと、これ、何?と質問する間も与えずに蓋を開け、中身をゆっくりと持ち上げて取り出した。  ――― 目の前に現れたそれは、銀の鳥かごの形をしたオブジェだった。  緻密な細工が施されていて、新しいものではないが良質な品だ。中身は見えないようになっているが、貯金箱かジュエリーケースか何かだろうか。  じっと見つめていると、じいさんが両手を伸ばしてきて、丁重な手つきでオブジェを傾けた。土台の底に、ネジがある。  これは、オルゴールだ。  じいさんの顔を見上げると、優しい笑みを返された。 『回してごらん』  俺は少し震える左手の指先で鳥かごをそっと掴み、右手の指でネジを回した。  テーブル上に戻すと、かごの上部が蓋のように開き、中から陶製の少女の人形がせり上がってきた。  モーリス・ラヴェル 『水の戯れ』  水滴と鈴が一体となったような旋律と共に、少女がくるくると回りだす。  アップにしたブラウンの髪には、水色の花の飾り。ミニのウェディングドレスのような純白の衣装。膝上まで出した細い足。靴にはアクセントとしてキラキラ光る青い石が付いている。  こげ茶の瞳はどこか夢見るようで、ローズピンクの唇は小さな微笑みを湛えている。  噴水の飛沫のような軽やかさを思わせるリズムに、ゆっくりと回転する少女の動きは少しミスマッチだ。  その不釣り合い感に、異様な程に惹かれた。  籠の鳥も同然だった箱入り娘が、初めて1人でお屋敷を出て、大きな噴水の前ではしゃいでいる……。  そんな光景が、頭の中に浮かんだ。 『お前は、その曲が好きだったじゃろ』  茶目っ気を滲ませた声にハッとして、顔を上げた。  いつの間にか、俺はソファから腰を下ろして、テーブルの前に膝立ちになり、天板にしがみつくような体勢でその音色に聞き入っていた。  ばつが悪いと思いながらも、じいさんの言葉に反論する気は起きなかった。    美しいメロディーと少女にのぼせた脳は、そんな活発に動かない。 『好きなものをあえて嫌いと言う必要が、どこにある?』  俺はじいさんから目を反らして黙り込む。  白々しいにも程がある。何故俺が、クラシック音楽を嫌いと言い張りながらも、年季の入ったスタインウェイの音が鳴り響くこの建物に来るのか。  この矛盾してる行動の意味を、このじいさんが……、俺の母の父親にあたる男が理解してないはずがないのに。  鈴を鳴らすような音楽が止むのと同時に、陶製の少女の踊りも止まった。  じいさんは右手で鳥かごの蓋をそっと閉じ、その手で俺の頭をポンポンと軽く撫でた。 『お前は、息をするのが下手くそすぎる』  そうかもしれない。どんなときも、水の中でバタバタと足掻き、必死に酸素を求めているような感覚が拭えない。  俺は不器用だ。自分の置かれた環境を、都合よく解釈することが出来ない。  けれど、人の道から逸れることに慣れるようなことだけはしたくないのだ。自分の両親のことを、「そういうものだ」と片付けてしまいたくない。 『……このオルゴールは、お前のものじゃよ』  何でもないことのように、じいさんは言った。  でも、俺は気付いていた。  その言葉を発するまでの、ほんの一瞬の間。微かに、息を吸い込むような音がした。  この鳥かごのオルゴールは、じいさんにとって間違いなく大切なものだった。理由はわからないけれど。 『(かなで)』  じいさんの優しい声が、遠くなっていく。 『そのお嬢さんは、誰かがネジを回さない限り、外に出ることは叶わんが』  視界がぼやけ、姿も霞んでいく。 『お前は、自分の意思で外に出ろ。いつだって、己をかごに閉じ込めてしまうのは、己自身じゃ』  ――― じいさん。あんたが言った言葉の意味は、わかっていたつもりだった。  でも、いまここにあんたがいたら、俺はこう言い返すだろう。 『籠から出ることを望まない人間だって、いる』  人はみな、無意識のうちに己をかごに閉じ込めている。そしてそのかごは、すべて自分の意思で生み出したものだ。  木で、竹で、ガラスで、あるいは鋼鉄で。材料も、質も、自分次第。かごの頑丈さを決めるのも自分だ。  けれど俺にとっては、かごの厚さなど関係ない。  そもそも、かごの外に出る気がないのだから。  白い部屋。  白衣を纏う人たちに囲まれて横たわる、細い身体。  その光景から目を逸らさずに、右手でシャツの第一ボタンを外し、銀のチェーンを胸元から取り出す。ネックレスにしていたプラチナのリングを抜き取り、左手の薬指に嵌めた。  天まで届くような噴水の水飛沫を思わせる、アクアマリン。  これが、俺の鳥かごの錠。どんな鍵も通さない。俺自身が、そう決めたのだから。
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