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パニック障害になりました。。
1981.6.28.私は群馬県で生まれた。元気な赤ちゃんだったそうだ。
第一章
私は子供の頃から母の事が大好きだった。父にさえ懐かず、常に母がいないと不安だった。そのため、幼稚園に行くことも、吐き気に襲われ、登園もままならなかった。
私の家庭は、祖母、父、母、姉と私の5人家族。子供の頃から両親は喧嘩ばかりしていた。その原因は、父の職をかえる性分、パチンコ、貧困、それに私が原因だったとおもっている。
私の両親は、常に私だけに厳しかった。たとえば、
外出の際に、トイレに行きたくなくても、殴られてトイレに連れて行かされたり、
風邪をひくと叩かれていた。
私が意見をすれば、「黙っていろ、お前には関係ない」
と言われるという感じだ。
そんな両親だったが、姉だけには優しかった。
姉が風邪を引いた時には、優しく接していた。また姉の意見には必ず耳を傾けていた。
私はずっと、両親に好かれたくて必死だった。
そうして私は家族の中で孤独を感じ、そだっていった。
そして18歳のある日、突然体がふあっとするのを覚えた。しかしこの時はまだ「あれ?なんだろう?」くらいにしか思わずに過ごしていた。
そんなことよりも、両親の顔色が気になっていた。
ただただ両親に好かれたくてたまらなかった。自分に向かう両親の笑った顔が見たかった。
そんな私に絶好の嬉しい事件が起きたのだ。
20の私は、街の観光大使に選ばれたのだ。観光大使として活動をした1年間、両親は今までにない笑顔と優しさで私と接してくれたのだ。
こんな嬉しい事はなかった。
両親が私をかまってくれることが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
しかし、その一年の任務を終えた途端、無常にも夢は現実に戻ったのだった。
再び私は、親にとっての自慢ではなくなり、
「私は全て間違いだけの人間で、自慢の娘は姉だけ。正しいのは姉と両親だけ。」
そう考えるようになり、
やがて人から嫌われるという恐怖から、人に自分の気持ちさえ言えなくなっていった。
第二章
19歳になり私は、その当時付き合っていた彼の子を身ごもった。しかし、親の当たりは相変わらず厳しく、「産んだら一生恨む」と、言われた。
私は、まだ20歳前だった為親の承諾なしではどうすることもできなかった。産むことができなかった。辛かった。彼と2人で声をあげて泣いた。
思えばその頃から、体がふわっとすることが増えはじめていた。
そんな中、私は、家族の冷たい言葉と辛さから、お金を貯め、家を出ることにした。
彼との同棲を選んだ。
狭いアパート。でも幸せだった。
しかし、うまくいったのは初めてだけだった。
彼は仕事もせずに、朝まで遊び、浴びるように酒を呑むという生活だった。
この時私は彼に今思えば洗脳されていたようだ。
私は、生活の為に仕事を3つ掛け持ちし、朝から晩まで必死に働いた。
逃げるように出た実家に、私の戻る場所など用意されていないからだ。
「やっぱりお前は何をやってもダメなんだ」そう言われることが分かっていた。
だから、私は何があっても結婚するんだ。2年我慢して離婚すれば、きっと両親も理解してくれる、、、
そう考え必死に働いた。
そして私はぼろぼろになっていった。気づけば体重は36キロになっていた。
もう心身ともにら限界だと思った。
ある日仕事に行こうと目覚めると、身体の違和感に気づく。身体を起こそうにも起き上がれない。トイレにも這いつくばっていった。その日は仕事を休んだ。
なんの病気なんだろう、
そう思い、いろんな病院へ行くがどこも悪いところが見つからなかった。
しかし、ある病院で精神安定剤が処方された。
私はなぜこれが処方されたのか全く納得いかなかった。
加えて副作用を見ると吐気と記載されているのを見るなり、恐怖心で内服する事など選択肢はまるでなかった。
それに、
第一、私は精神病じゃないのだから。そう思っていた。
それからしばらくして、友人に誘われランチの約束をした。約束の日友人が迎えにきてくれた。しかしついた先は精神科だった。
友人は私の異常に気づいてくれていた。それでも私は精神病じゃない!出された薬を服用しなかった。毎日胃薬をのみながら自分に大丈夫だと言い聞かせていた。
第三章
ようやく結婚から2年が経とうとしていた。
彼は私の親の前ではいい人だった。私も、親に怒られるのが怖かった為、彼とうまくいっているフリをして過ごしていた。
しかし、彼の言葉の暴力は続いたままだった。
彼からは、「あれをもってこい、これをもってこい」と言われ、間違うと怒鳴られた。
お金が足りないので、遊びを減らして欲しいと頼めば、「友達のいないお前には、俺の気持ちはわかんねーよ」と返されるだけだった。
毎日が辛かった。
私が馬鹿だからなんだ、、、。
そう思って謝っていた。
「ごめんなさい。」
「ごめんなさい。」
しかし、謝ってもうまく行くことはなかった。
ある日、夫婦で遊園地へいく計画を立てた。
私は嬉しかった。この旅行が楽しめればまだ頑張れるかもしれない。自分の中で賭けをした。しかし彼は
「別に行っても行かなくてもどっちでもいい。」と言い、出かける前日の夜更け、友達と遊びに出掛けていった。
「もううまくはいかない」気持ちは固まった。
その夜、私は姉と友達に助けを借り、荷物をまとめ家を出た。
翌日、忘れ物を取りに行くと、結婚式の写真と私のものは全てクローゼットの中にあった。
悲しかった。
私たちは離婚することになった。
最後の彼からの言葉は、
「ボードの板と服買ったけど誰が払うの?俺、まだまだあそぶから。」だけだった。
そして親から言われた言葉は、「全部お前がわるい」そういわれた。
もちろん、実家に
私の居場所がない事は分かっていた。
しかし姉があの人といたら私が死んでしまうと涙ながらに頼んでくれたおかげで、アパートを探すまでの数日間、実家に寝泊まりすることができた。
そしてアパートでの一人暮らしが始まった。
もちろん両親が私に会いに来てくれることは一度もなかった。
第四章
一人暮らしを始めてしばらくすると、新しい彼氏が出来た。彼はとても優しかった。しかし体調は戻らず、手の震え、ふわっと感、過呼吸を繰り返していた。
私を心配してくれた彼は、私を病院へ連れていってくれた。
そして、そこで精神病の説明を受けた。
私には、もうそれを否定するものは何もなかった。
私はその日から内服を始めた。
「これで治るんだ」
そう思っていた矢先だった。
息が出来なくなり、手足が震えて止まらなかった。怖くて怖くて涙が止まらなかった。
それ以来、毎日毎日が不安になった。
ある日、病院へ行く途中迷ってしまった。するとまたあの恐ろしく苦しい時間が私に襲いかかった。
近くにいた人に頼んで救急車を呼んでもらった。
しかし、救急車が到着した時には
私の呼吸はすでに落ち着いていたのだった。
念のため病院へいくと、点滴をしてくれた看護師さんから、こんなことを言われた。
「パニック発作だったのかな」と。
これが精神病の症状なんだと思い、怖くなった。
これを機に、私は精神科を受診する事を決めた。
待合室での人たちを見ていると、正直怖くなった。人はこんなふうになるものなのかと。。。。
しかしもう逃げることはやめた。
そして私はこの病院の医師に、私の病名をつげられた。
パニック障害、広場恐怖症、嘔吐恐怖症。
今までの自分と、全てが繋がったように感じた。
そして私はこの頃初めて、姉にこの苦しみを打ち明けた。
姉は「力になれることはやるから。」
そしてもう私には仕事をする力は残っていなかった。人と話すことさえ出来なくなり、姉が代わりに私の辞職の手続きをやってくれた。
子供の頃から頭の良かった姉は、医療従事者として働き、家族から信頼されていた。やはり私も姉の事が大好きだった。その姉に助けてもらえることが、本当に心の支えだった。
第五章
治療を続けているうちに、少しずつ発作の回数も減り、体調の良い日も出てくるようになっていった。
ちょうどその頃、母の胃に癌があることが分かった。
昔から透析をしていた母には、できる治療は残されていなかった。
私は母にできる事はなんでもしたかった。
母の食べたいものはなんでも届けた。
しかし、やはり私は必要とされなかった。「お前が迷惑かけたから癌になった」そう言われた。
そして病院から母が呼ぶのは姉の事だけだった。
そして遂にモルヒネを使い出すと、母は私の事だけわからなくなった。
1981年、母は、私を妊娠し、妊娠中毒症になり腎臓を壊した。
私を育てている間ずっと、体調はすくれず、人工透析をするまでになっていた。
だから私のことが嫌いなんだ、、、。
だから私には笑顔くれなかったんだ、、、。私を産まなければよかったと、思っていたのだろうか、、、。だから私の事だけわからないの、、、?
幼い頃からの消えることのない悲しみは、増していった。
ある日、モルヒネで私をわからなくなった母が突然私の名前をよんだのだ。
「みかちゃん、こんなんになっちゃってごめんね」
母は私にそう言った。
母は私を思い出してくれた。
小さい頃からの悲しみが一気に溶けていくのが分かった。
生まれてからの全てを許せるように感じた。
涙が止まらなかった。
その日母は他界した。
その頃になると、彼とのズレが生まれ始めた。
私は、もう自分で決めることができず、占い師さんに相談することにした。
「よく当たる」とは聞いていたが、半信半疑だった。しかし驚く事に、その占い師さんは、私の過去全てを言い当てた。
そしてその後続けて「今の人とはもう長くない。あなたはこの後、次男で優しい人に出会って結婚するよ」と言われた。
そして
「瑞子のお参りは、もうしなくて大丈夫。その子は必ずあなたの元にくるから。女の子よ。それと、お母さん、あなたを心配しているよ。だからいつも隣にいる。生前、自分の体調がつらかっまからあなたにあたってしまって申し訳なかったと、おもっているみたい」
驚いた。
全ての言葉がスッと入ってきた。
私は、その言葉たちに救われた。
そして、その後彼とは別れ、言われた通り優しい今の旦那さんと出逢った。
幸せな日々だったがパニック発作は消えてはくれなかった。
第六章
私は妊娠をした。
「また私の元に来てくれたこのこを必ず幸せにしよう。私のような思いは絶対させない。」そう思った。
私は愛情を注いで育てた。
そして3人目に恵まれた時、体重増加の度重なる注意により、私は鬱になってしまった。
死にたくて死にたくて、毎日泣いていた。
姉、父は私を支えてくれた。
薬を飲み、泣きながら過ごし、37週、ようやく妊娠が終了した。安定剤の使用により子供は泣かなかったが、健康であり、ホッとした。
その後、安定剤は継続していたが、私の体調は落ち着いてくれていた。
しかし、家事、3人の子育てとパート毎日は過酷だった。
長女は生まれた時から手のかかる子の為が、いつしか私は疲れ切ってしまっていた。
そんなある日、また涙が止まらなくなったのだ。
そして、子供たちに大声を出して、叩くようになってしまった。
「私がされて辛かった事を子供たちにしたくない。」
そう思っても自分がコントロールできないのだ。
子供達に暴言を吐いては悔やみ、叩いては悔やみ、涙は止まらなかった。
そんな自分が嫌で、悔しくて、悲しくて、子供たちに申し訳なくて仕方なかった。
ある夜、心がざわつき強い不安に襲われた。心が破裂しそうになり、「私なんて死んだ方がいいんだ」
そう強く感じた。生きている意味がわからなくなった。その時子供の声が聞こえ、ハッとした。その時初めて感じた感覚だった。
「人は突然死にたくなる事があるんだ。遺書も残さずに突然やってしまう事があるんだ、、、。」と。
そして同時に子供の声に目が覚めてよかったと思ったのをよくおぼえている。
その後医者に症状を伝えると、鬱、育児ノイローゼだと診断された。
今まで以上に、父や姉も育児をてつだってくれ、私を助けてくれた。できるだけ家族にも明るく振る舞ったが、本当は全く症状はよくなっていなかった。
辛さはなくならず、生きている価値もわからないまま、私は姉に「私、生きてていいんだよね?精神病の悪化は子供をおろしてから、、」そう姉なメッセージを送った。
すると姉は「生きてていいんだよ!」と、いってくれた。そして続けて「分かっていたよ私も産む事反対してしまったから、、、だからずっと瑞子参りいっていたよ、、、だからねあの時から、『もうこれからはお前に何があっても私はたすける』ってきめてるから。」そう言った。
姉の言葉は紛れもなく私を愛してくれている人の言葉だった。
迷惑ばかりかけてしまっているのに、そう思ってもらえていると知り、こころからうれしかった。
ある日のことだ。
父が育児を手伝ってくれていた時に、父がオムツ交換ができないことに気づきハッとした。母は私を出産後、腎臓を壊し体調が優れなかったにも関わらず、父は何もしなかったんだ、、、
1人での子育て
仕事嫌いの父、パチンコへ行く父、、、
義理母との同居、、、
「お母さん、、、大変だったろうな、、、」
私が親になり、初めて
母の、親として妻としての気持ちを考えた瞬間だった。
ある日、私は母子手帳を見てみようと思った。
本当はずっと前から見たかった。
「何も書いてなかったら、、、また悲しくなる言葉があったら、、、」
それが頭から離れずずっと怖くて見れなかった。
でもみたかった。
もしかしたらと期待する自分がいたからだ。
39歳初めて母子手帳を開く。
そこには、ちゃんと私の記録が記されていた。母はちゃんと書いていてくれたのだ。
それだけで嬉しかった。
そして何より嬉しかった事があった、、、。
手帳には、生まれたばかりの私を抱く、優しい母の笑顔の写真が挟んであったのだ。
お母さん、ごめんね、、、
ずっとお母さんを信じられなかった、ごめんなさい。
お母さん、思春期の手のかかる私、大変だったよね、、、
たくさん迷惑かけてしまって、何も親孝行出来なくてごめんなさい、、、
お母さん大好きだよ、お母さん、、、。
初めて感じる事ができた思いは、私の力になった。
第七章
これまでいろんな事があった。
私は今だに、まだまだ自分を好きになれずにいる。心の傷も変わらず共存していまる。
でも色々な辛い出来事の中にも、私に力を与えてくれる出来事もあった。
支えてくれる姉、父、夫、そばにいてくれる友人、昔病院に連れて行ってくれた元彼。
私がどんなに動けなくなろうと、いつも誰かが私のそばでささえてくれた。
話を聞いてくれた。生きる力をくれていた。
そして占い師さんに言われた母の私への想い。
母子手帳にそっと挟まれていた、優しく微笑む母と、母に抱かれる私。
最期に私を思い出してくれた母。「ごめんね」のひとこと。まだまだいきたかった母の思い。。。
何度も何度も、長く辛い時間に押しつぶされそうになるけれど、それらを絶対にわすれてはいけない。そう心にきめている。
なぜなら、私を支えてくれたことは、紛れもない事実だから。私を思ってしてくれていたことは事実だから。
気づくと、そう思えるようになっていた。
精神病と生きること、、、それはほんとうに過酷で、先を考えると途方に暮れる時もある。
パニック発作で、苦しい事からも逃げられない時もある。思うように生きられなくて、悔しくて、悲しくて、自分が生きている意味が見えなくなる時もある。
「死んだら楽になる」そう信じてしまう時もある。そう思ってしまう事もまだまだあるかもしれない。でもその時は、どんなに辛くても、私を支えてくれてきた人たちを信じようと思う。
こんな私でも、
「支えるから。」そう思ってもらえる自分のことを信じてみようと思う。
あのとき「ハッとして(命を絶たず)よかった。」と感じた自分の気持ちを思い直そうと思う。
だからもしも、世の中の誰かが、同じ辛さでいたとしたら、心に留めておいてほしいことがあります。
人に頼ることは恥ずかしいことじゃないとおもいます。甘えじゃないとおもいます。助けを求めればきっと人は助けてくれる。そういう人たちがいる事を信じてください。
そう思ってもらえる自分自身を信じてみてください。
もうそれ以上、自分を責めないであげてください。
どうか、もうそれ以上ひとりで頑張らないでください。
誰かも私と同じように、常に、恐怖から始まる毎日を過ごしているかもしれない。
でも精神病は、自ら命を絶たない限り生きられる病気だと信じています。
あせらずに、
ゆっくりでいい。
半歩でもいい。
前を見て、すすんでいこう。
後書き
私は病院の先生から私の病名が「パニック障害、嘔吐恐怖症、広場恐怖症」
とつげられた。名前がつけられたことで私は病気を素直に受け入れられるようになった。
「一生付き合って行く友達だと思ってください。この病気は、、、」と先生に言われた。
それから自分に合った薬とも出会いどうにか日常生活が送れるようになりまた働き始めることもできた。しかしまたすぐに調子が悪くなり辞めるを繰り返した。先の見えない毎日を送った。
もうダメではないかとおもった。カウンセリングもしたでも「この人に私の何がわかるの?!」と思いすぐにやめてしまった。その頃今の旦那さんと出逢った。彼は私の全てを受け入れてくれた。
付き合って1年がたち結婚をした。
こんな私でも結婚をしてくれてありがとう。いまでは3人の子宝にも恵まれた。
幸せな日々を送る中、私の心の病は癒えていなかった。妊娠中も薬を飲み出産をした。
出産後、2年半たった今新たな病気と闘っている。
今度は「育児ノイローゼと鬱」
病状が深刻になるとパートにも行けなくなった。
小さい頃散々殴られ、言葉の暴力を浴びせられ、どんなに辛い事だと分かっているのに。。それをやってしまう自分がいた。
気持ちが上がらず外に出るのも嫌になった。「どうしたらいんだろう」「もうわからない。。」「死にたい」そう考えてしまう日もある。。。
そんな時母が亡くなる直前に言っていた言葉を思い出す。「お母さんがんばる!!」それをおもいだし「生きたいのに生きれない人もいる。自分で命を絶たってはいけない」と思った。しかしふとした時、死のうとする衝動に駆られる。何も考えずにふと死のうとしているのだ。そんな自分が怖い。
自分で自分が制御できなくなり、薬も何種類も変えた。自分との戦いだ。
近年自殺者が増えている。自殺をしてしまう人には私と同じような状態の人がいるのではと思う。死のうとして死んでいるのではなく病がそうさせて本人が気づかないうちに亡くなってしまっているのではないだろうか。現に私がそうなってもおかしくない。そんな時は周りを見てほしい。必ず助けてくれる誰かがいる。私は今歳を取りだいぶ丸くなった父と、姉が子供の面倒を見てくれている。みんなに助けられながら生きている。こういう事を確認して欲しい。
自分の事をわかってくれる人が必ずいる。そしてその人達に対して感謝を忘れないように生きている。
また人によって症状は様々だと思う。しかし何か嫌な事があっても、無理をすることなんてない。そんなに頑張らなくても大丈夫。まずは自分と向き合い出来ることからはじめてみよう。何もしたくないなら何もしなくていい。今まで十分頑張ったのだから。。
私は今でも鬱で涙が止まらない日があるパニックを起こすこともある。さまざまな症状に襲われている。しかし今前を向いて生きている。ちゃんと自分と病気と向き合って行こうと思う。
今私はぼろぼろだかまたゴールのないスタートをきる!!
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