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メンヘラ系教師、左遷されて---終わり。
(十)最後のお友達
特別支援学校は、かつては養護学校と呼ばれ、様々な障害を持った生徒が集まってくる。亮介の得意な世界史なんかないばかりか、そもそも社会科なんかを教えることはなくなったのである。これは校長の目論み通りであった。
転勤を前にして、亮介はため息まじりで教檀の上で言った。
「俺はやっぱり駄目教師やなあ」
直球で生徒の反応があった。男子生徒からである。
「先生、駄目教師やないで」
それから一年間の授業の感想を書かせた。
みんな判で押したように「授業がわかりやすかった」・「楽しかった」・「よく知ってるなあと思った」等のことが書かれていた。
また、送別式の時に花束を渡す女子生徒は「授業楽しかったです」と言った。
しかし、「もう終わった」と亮介は感じた。元々校長の指図で左遷されたのだが、特別支援学校には世界史ばかりか社会科もないのである。
さて、転勤を前にして亮介は最後の「友達」に別れを告げた。場所は保健室であった。
彼女の名は長谷という。面長で可愛い女の子であった。
最初、彼女は、校舎内禁煙が決まって、車でタバコを吸っていた亮介の所へやってきた。
そして車の窓を叩いて言った。
亮介は一瞬ドギマギしてしまった。タバコを吸っているところを校長に見つかって何か注意をされるのではないかと思ったからだ。
車のウィンドウを空けると、そこには校長ではなく、可愛い女性徒がいた。
長谷さんであった。
「先生、タバコいかんよ」
「ああ、分かってるけどやめられなくて」
「先生はお父さんと同じ年ですか?お父さんはねずみ年なんですけど」
「(間違いなく同じ年だ)そうやねえ)」
「うちのお父さんは先生のように髪の毛フサフサやないよ。禿げてる」
「ふーん」
「先生、タバコやめて長生きして」
「ありがとう」
よく見ると彼女の左手にはリスカの痕があった。気づいてはいたのだが、亮介は何も言わなかった。
それから彼女と保健室で色々と話をした。どうもお父さんとはうまくいってないようでった。
三月になった。亮介が保健室で養護教諭と話していると彼女が入ってきた。
「先生、バファリン百錠飲んだ」
養護教諭が答えた。
「バファリンでは死ねないよ」
「うん」
しばらくすると彼女を迎えに彼女のボーイフレンドがやってきた。二人で帰路についたようであった。
亮介は最後になるので、彼女と話がしたかった。
亮介は転勤になるが、彼女は学校をやめてしまっていたのだ。
養護教諭の携帯を借りて彼女に戻ってくるようにメールを打った。
まもなく彼女とボーフレンドが戻ってきた。
「長谷さんがいなくなると寂しくなるね。実は僕も転勤なんや」
「どこへですか?」
「島の養護学校や」
「ふーん」
その後、養護教諭から、特別支援学校へ行ったらいるだろうと言って、エプロンをプレゼントされた。
こうして亮介は島の特別支援学校(養護学校)へ転勤になった。
(十一)不安が波のようにやってくる
亮介は島の特別支援学校へやってきた。最初は一年生の担任であった。何をするのかというと、ほとんどが作業である。知的障害の男子生徒を二人持った。クラスにはもう二人女生徒がいたのだが、それは女教師に任せられた。
特別支援学校という所は普通に授業を行う所ではない。生活単元とか作業とかがあって、学習は小学生レベルの算数と国語だけを朝に教える。そして後はほとんどが何かの作業であった。
生徒は一見すると知的障害があることは分からない。だから普通の高校生に接するように接した。
ただ、普通の学校と違って「休み時間」というものがなかった。
亮介は作業が苦手である。特に「ものづくり」は最も苦手とする所であった。美術や作業の時間というのがあったが、全く何をしていいのか分からなかった。
それから、生徒には朝バスで登校してきてから三時にバスに乗って帰るまではつきっきりであった。三時からは書類作りである。これも亮介の最も苦手とするところであった。
亮介は小学生・中学生時代、音楽だけが5で、技術家庭や美術なんかは大抵2であった。何か絵を描かせても平面的な絵しか描けなかった。また、動物なんかを描かせると、それが犬なのか猫なのかタヌキなのか分からなかった。
これは特別支援学校では致命な欠点である。
それでも一年・二年の間は何とかこなせた。
絵を描かせると生徒の方が上手い。そのために生徒から馬鹿にされた。楽しい時間と言えば音楽と体育だけであった。
そして彼らが三年生になった時に事件が起こり、亮介の不安障害が絶好調になってしまった。
それは美術の時間に起こった。
亮介が持ったのは、かなりしっかりした生徒と、コミュニケーションが取れない生徒であった。コミュニケーションが取れないというのは、発話に問題があり、自分から何かを話すことがなかった。大体は誰かが言ったことを「オウム返し」で繰り返すだけであった。
その子はみんなから「よっちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
しかも算数では二桁の計算や筆算ができない。
私は一生懸命に筆算を教えた。
特別支援学校では親とのコミュニケーションはかなりの重要性をもってくる。一番子供のことを知っているのは当然親だからである。
「よっちゃん」のお母さんは普通の人で、取り立てて「モンスターペアレント」と呼ぶような人ではなかった。
しかし、亮介が何度も失敗するので、連絡帳(毎日書いてくる)に何を書かれるのか亮介は不安で仕方がなかった。
朝、連絡帳を見る。すると教師である亮介への批判が書かれていた。
それから、亮介は朝の連絡帳を見るのが不安になってきた。連絡帳を開く度に心臓が高鳴った。
「先生なのにこんなことが分からないのですか?」
「(ああ、またやってきた。私への批判だ)」
そして事件が起こった。
美術の時間のことである。学校の校歌をみんなで彫刻していた。よっちゃんにはできないだろうと思って、大半は亮介が代わりにやった。彫刻刀を握って文字を刻んでいく。
「よっちゃんに全くやらせないと勉強にはならないな」
そう思ってよっちゃんに彫刻刀を握らせた---と、次の瞬間、よっちゃんが彫刻刀で左の人差し指を切ってしまったのだ。
体育の教師が慌てて止血した。
「しまった」
亮介は思ったが、あとの祭りであった。
その後、教頭がよっちゃんの家まで行って謝ったそうである。亮介も行きたかったのだが、行ったら行ったでどんな悪口雑言を言われるか分かったものではない。そこで行かなかった。
ただし、保護者会の時にお母さんから散々言われた。
以来、亮介はこの親が怖くなってきた。
連絡帳には必ずと言っていいほど教師の批判を書いてくる。こちらとしてはたまったものではない。
こうして、亮介の不安神経症は余計に酷くなっていった。
病院では神経までは切れてないということであったが、それでも不安であった。だから生徒が登校してくる朝になると心臓が高鳴るのを覚えた。
その後、よっちゃんは何とか卒業していったが、その後、亮介はまた学校を休職することになった。
*
一年後、亮介は復職した。思うに、今まで不安神経症の生徒とつき合ってきたが、自分が同じ病気になるなどとは露程も考えたことのなかった。しかし、今はその不安神経症(すでにパニック障害と名は変わっていたが)に亮介自身が苛まれているのだ。
何とも複雑な心境であった。
亮介は新しく二年生を担任することになった。クラスには三人の女子と三人の男子、そして二人の女性教師と私がいた。
亮介は相変わらず薬を飲みながら働いた。以前にも増して大量の薬だ。SSRIのパキシルとアモキサンの両方を相変わらず飲んでいた。
クラスには場面緘黙の生徒としょっちゅう歩き回る生徒がいた。そして、その歩き回ったり逃げたりする生徒を持たされた。
彼はいつ教室からいなくなるか分からない。もう年をとった亮介にはそれを追いかける気力はなくなっていた。
そして二年後、亮介は三十一年間勤めた教師を辞めた。
(十二)パニック障害の友人
亮介が最初の学校にいた頃、パニック障害を持った友人がいた。
その後に絶交するのだが、何か病気のことをよく自慢していた。まさに病気は彼のステイタスシンボルであるかのようであった。
「俺はこんなこと何度も言われた」と言って、病気になってから言われたことをさも勲章であるかのように話していた。
彼は電車に乗れなかった。大学生の頃、電車の中で急に不安発作が起こり、以降電車に乗れなくなったのだ。
彼とは絶交したが、まだ初任校にいる頃にはよくつるんで亮介の車で走り回っていた。電車には乗れないが、車は平気だったようである。
彼には不幸というものがなかったのだが、病気であることが一種の勲章であった。仕事は全くしていなかった。
常備薬はコンスタンであった。
当時の亮介には彼の病気のことが全く理解できなかった。しかし、三宮へ行くのに快速も新快速も使わず、鈍行で行こうと言って、本当に鈍行で行ったことがあったので、それは真実だったのだろう。
しかし、仕事をしていないせいか、社会のことに全く疎かった。いわば大きな子供であった。
こんな彼にも恋人がいた。
病院で知り合った自律神経失調症の女の子であった。
勿論「女の子」なんていう歳ではない。亮介とは二歳違い、彼とは一歳違いであった。
彼女にはリスカの経験はなさそうだったが、手の甲にタバコを押しつけた痕があった。 彼も彼女も異口同音に「この病気は誰も分かってくれない」とこぼしていた。
「え? 分かってほしいの? それは無理だろう」
と亮介は経験上考えていた。
現在ではパニック障害の本なんかいくらでも出てるし、ネットで検索したらいくらでも出てくる。しかし、当時の理解はその程度だったのだ。
「電車に乗れない」
これが理解できるだろうか? 亮介には理解できない面もあるが、その時(彼が電車に乗る時)の不安はある程度想像に難くない。
亮介と彼とは空手道場で知り合った。「空手ができるのなら仕事くらいできるだろう?」と亮介はいつも思っていた。しかし、しないのかできないのか無職であった。二十代で無職であり、そして今でも無職であろう。
彼からは決別状が送られてきて、以来病院で会っただけで話してない。
その時のことは話題として書けるが、やめておく。
亮介も本当はこの病気を誰かに分かってほしい。しかしそれは無理だ。経験がなければ無理だ。そういう亮介も「電車に乗れない」ということが分からない。しかし、「仕事ができない」という訴えはよく分かる。
亮介も仕事ができなくなって教師を辞めたのだから---。
(一三)家庭教師でパニック
パニック障害というと、何かパニックになってしまう病気のように思われるかも知れないが、昔は「不安神経症」と言っていた病気である。パニックになるメカニズムと不安になるメカニズムは同じなので、今では「パニック障害」と呼ばれている。
亮介は鬱と統合失調症の上にこのパニック障害を併発して薬を飲んでいるわけだ。
現在、亮介は塾教師と家庭教師をやっている。元々家庭教師なんかやるつもりはなかったのだが、特別支援学校の時の先輩教師に頼まれて家庭教師にも出向いているのだ。
そこで、以前カウンセリング係として見ていた生徒達と同じように亮介自身もパニック障害になってしまったのだ。
とにかく、「家庭教師へ行く途中で事故でも起こしたらどうしようか?」とか、あるいは家庭教師へ行く途中の喫茶店でおじさん達が大声で話しているのを聞いただけで不安になったりした。
確実に病的である。
そして、亮介は未だにこの病気が完治したという話を聞かない。
認知行動療法や森田療法なんかでは、根本治療をするのではなく、症状が起こっても「気にしない」ようにするのだ。
みんなが言う。
「少し病的やなあ」
「そんなことなったことがないから分からない」
分からなくて当然である。分かるなんていう方が異常だ。
しかし、亮介は今でもビクビクしながら家庭教師へ出向き、そして授業が始まると何食わぬ顔をしてやっているのだ(実際、授業が始まったらこの症状は消える)。
今では、リスカを繰り返す生徒も拒食症の生徒も鬱やパニックの生徒もいない。
しかし、できることならもっと教師を続けて彼ら・彼女らと話がしたかった。
メンヘラ系の自分が、もっと自分を晒しだし、「僕もそうなんだよ。いわばピアなんだ」と正直に打ち明けたかった。
カウンセリングのスーパーバイザーは「カウンセリングというのは技能ではない。一緒になってもがくことなんだ。昔の長屋の八つあんや熊さんがやっていたことをやっているんだ」と言っていた。
その通りである。
亮介は何人もの不登校生や不安を抱えた生徒や引きこもりに関わってきたが、正直言って、彼のやり方が正しかったかどうか分からない。しかし、「もっと多く救えないか、もっと多く」と傲慢にも思っている。
亮介は今、地方に住んでいて、教師でもない。塾では○○高校や○○大学へ入れることが優先される。何か悩みがないかなんて聞く余裕はない。
ただ、多くの人に「これは病気である」ということを分かってもらいたい。
亮介はかつて学校で、他の教師に「俺も休み方教えてほしいわ」なんていう心ない言葉を吐かれたこともあった。
しかし、改めて言う。
「これは病気なんだ、病気なんだ、病気なんだ」
怪我や胃腸炎で人は優しくしてくれる。病気の人間に対しては人は優しい。しかし、心の病に関しては冷淡だ。
そして彼らは口々に言う。
「分からない」
それはそうだ。分かろうはずがない。心の問題には誰も立ち入りできないのだ。
だからこの病は厄介なのだ。
(十四)死ぬことよりも怖い
亮介にとって、不安は死ぬことよりも怖かった。そして、それは彼が大人になると陰のように徐々に近づいて来たのだ。不安は本当に死ぬことよりも怖かった。
「彼女達もこんな思いをしていたんだ」
今更ながら亮介は、その得体の知れない物の恐怖におののいていた。
「俺はこのまま怖がりながら死んでいくのだろうか?」
そんな頃、亮介は昔の教え子であった日陽ちゃんに電車の中で偶然出くわした。
日陽ちゃんは以前の暗さはなく、健康そうであった。高校時代には顔は蒼白であったが、少し日に焼けたような感じがした。
先に気づいて声をかけてきたのは日陽ちゃんであった。良介は電車の中で立っており、前の座席にサングラスをしている若い女の子がいた。その女の子が、最初誰であったか良介には分からなかった。あまりもの変容ぶりであったからだ。
「あのー、大村先生?」
「はい、どなたですか?」
良介が言った途端に日陽ちゃんはサングラスを外した。
「私です。もう忘れちゃったのですか?」
「あ!」
二人の間に言葉はなかった。しかし、彼女は病気を克服したようだった。それが彼女の顔色、焼けた皮膚から思い知らされた。
「もういいの? 電車なんかに乗っても」
「大丈夫です。先生にはお世話になりました。この人は私の婚約者です」
見ると、彼女の横に背の高い好青年が座っていた。
「日陽、この人先生なの?」
背の高い青年は言った。
「うん、高校の時のね」
その後しばらく沈黙が続いたが、彼女が良介に話した。
「先生、まだ先生やっているのですか?」
「実は辞めちゃった」
「そうですか、では今は何を?」
「うん、家庭教師や塾で食いつないでいる」
「大変なんですね。あ、この人精神科のお医者さんです。私患者だったんですけど、この人のカウンセリングで治りました。それからつき合うようになったんです」
普通、カウンセラーという者はクライアントと道で出会ってもお話なんかしてはいけないのだ。そういう倫理規定がある。しかし、この二人は一緒になったんだ。
そう思っていると、電車は次の駅に滑り込んだ。
「じゃあ、私達はここまで」
そう言って二人で仲良く下車した。
*
不安の根底には「死に対する恐怖」があると言われている。しかし、突如として襲ってくる不安は、良介には死を乗り越えさせるものであった。あの心臓バクバクが来たら、死ぬ方が楽だと思ってしまうのだ。実際、この病気は鬱病を併発して死んだなんていう話もある。勿論自殺である。
やがて良介は、この不安を消去することは無理難題であるということを悟った。話に出てきた認知行動療法や森田療法などというものがあるが、いずれにしても不安を消去するというものではない。不安という感情を抱えながら、それが気にならなくなるという療法である。
良介のかつての友人に電車に乗れない男がいた。恐らく電車に乗っていてパニック発作に見舞われたのであろう。それからは電車に乗る度に「いつ発作が起こるのであろうか」という不安に見舞われ、乗れなくなったのだ。
良介も、さいしょはこの男のことが分からなかった。電車なんかに乗ることの何が怖いのだろうかと思っていた。良介は電車に乗れる。しかし、パニック障害という病名を頂いてからは、とにかく生きること自体が不安になってしまったのだ。
良介はクリスチャンである。だから毎週教会へ行っていた。遠いのだが、淡路島からバスに乗って、電車を乗り継いで加古川の教会まで行っていた。
不安になった時はお祈りをするのだが、一人で祈っても効き目がないと思ったのか、牧師夫人に電話をして祈ってもらうことが多かった。
しかし、牧師夫人が完全に不安を理解しているのか怪しかった。なぜならば夫人のお祈りの内容がいつも同じであったからである。
家庭教師が嫌ならばこの仕事を辞めてしまうという選択肢がある。しかし夫人はそんなことを一考だにしていなかった。良介は病気だから病人を癒やす祈りばかりしていた。
勿論、それは間違ってはいない。しかし、良介の不安はもっと身近なものであった。
地球が崩壊するとか隕石が降ってくるといった不安ではない。今から家庭教師の仕事にに行くのに、なぜか三十分前になってくると心臓がバクバクして死ぬのではないかという不安に襲われるのだ。
彼はあらゆる方法を試してみた。一人で行う認知行動療法、森田療法、フォーカシングなどである。しかし、最も確実な方法は「理解」してもらうことではないだろうか?
了
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