メンヘラ系の女の子ヒナちゃん

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メンヘラ系の女の子ヒナちゃん

(三)日陽ちゃん  その翌年の四月に亮介は学校に復職した。彼は三年生を持っていたので、本当なら卒業生を出せるはずだったが、卒業式にも出ずに復職したのだ。大半の生徒は「知らない子」であった。しかし、なぜか知った顔があった。不安神経症で学校を休み、戻ってきた河村日陽という女の子であった。  その子も本当は卒業しているはずであった。しかし、単位を落とし落としして二年生にいた。二十歳を過ぎた高校二年生である。  その子が一年生の時、担任は、あまりにも賢い生徒であったので、副委員長に抜擢した。しかし、徐々にその子のことが分かってきた。しょっちゅうお休みを繰り返すのだ。そのために普通科高校の、それもかなりの進学校へさえ行ける能力があったにも関わらず、この学校へやってきて、何年も留年してしまったのだ。  亮介はこの子のクラスの世界史を担当することになった。  確か一年生の時に、大縄飛びが怖いと言って体育祭を欠席していた。なぜ大縄飛びが怖かったのかというと、もしも縄を飛んでいる時に自分の足が引っかかったらみんなに迷惑をかけるということであった。  それから、「みんなが私のことを見ている」という妄想もあった。  それに対して担任の与えたアドバイスが、また酷かった。  担任のT先生は、彼女が一年生の時に「娘が暴れている」という父親からの通報で彼女の家へ駆けつけた。  彼女は自分で自分の首を絞め、「私なんか死んだらいいんや」とわめき散らしていた。T先生が到着すると、彼女は包丁を持ちだしてきて「私を殺して」と叫びまくった。  そこで一旦落ち着かせてからT先生は話を聞いた。  「みんなが私のことを見てるの。もう疲れたんです」  「みんなが見てるって、それじゃあ、昨日林田が何をしていたか覚えている?吉田が何していたか覚えている?」  彼女は押し黙ったままであった。そんなことは分かっている。しかしどうしようもないのだ。これは心の病気なのだ。彼女はそれを先生に伝えたかったが、どう考えても分かってくれそうにない。本当にこれが彼女の病気なのだ。  こうして彼女は心療内科へ行って薬をもらうことになった。  その後、彼女は二年間留年をして、まだこの学校に残っていたのだ。勿論、学校を休職した亮介を知っているはずだ。  彼女はややポッチャリとした体つきをしていて、髪の毛はお下げで、まあどちらかと言うと「可愛らしい」。しかし、あまりもの緊張のためにいつも手汗を拭うためのタオルを持って、一番後ろの席で静かに教師の話を聞いていた。  亮介はこの子に愛おしさを感じた。「彼女は俺と同じ病気なのだ。だから今ここにいる。彼女と何とかしてお話をしてみたい」と思った。同病相憐れむというが、彼の彼女への感情は恋に近かった。  そしてある日、そのチャンスが向こうから舞い込んできたのだ。  復職してから亮介はカウンセリングの係に回された。勿論、学校カウンセラーはいたのだが、その方は普段は大学で教鞭を取っていて、週に一度しか来られない。そこで、カウンセリング室で話を聞くのはほとんどが亮介であった。  亮介は職員室には居着かずに、空き時間の大半を、このカウンセリング室か保健室で過ごしていた。  彼が保健室で養護教諭と談笑していると、彼女が入ってきたのだ。    「先生、またリスカした」  そう言うので、養護教諭は彼女の左腕を見た。常に長袖を着ているので亮介も「おかしい」と思っていやが、案の定左腕には無数の傷跡があった。 「またやっちゃったのね。でもこの傷の深さでは死ねないよ。前に薬をオーバードーズした時は驚いたけど---」  亮介も話の輪の中に入った。  「河村さんだったね。どんな薬を飲んじゃったの?」  彼女が答えてくれるか不安だったが、その次の彼女の言葉で不安は消し飛んだ。  「抗鬱剤と精神安定剤です」  「何て言う薬を飲んだの?」  「いつももらっている薬で、ドグマチールとソラナックスです」  「ああ、僕よりも軽い薬や。ドグマチールは元々胃潰瘍の薬だったんですよ。それからソラナックスも安全な薬で、死なないようにできている。最近の薬は死なないようにできているんですよ」  「ふーん。先生、去年は休んでいたけど、何の病気だったんですか?」  「君と同じ病気ですよ。鬱と不安神経症です」  「ふーん。先生、またお話がしたいね」  「いいですよ。ここかカウンセリング室にいるから話に来てね」 *  この時の彼女との話はここで終わった。しかし、それから彼女が頻繁にカウンセリング室を訪れるようになってから状況が一変した。  いつの間にか、亮介は彼女のことを「日陽ちゃん」と呼ぶようになっていた。  そしてある日、亮介は日陽ちゃんを喫茶店に誘った。本当はカウンセラーはクライアントと個人的に接することは禁止されている。しかし亮介は日陽ちゃんの病魔で苦しんでいる姿に美を感じ、そしてそれに負けたのである。そう。亮介の妄想の中では彼女はあくまでも不幸でなくてはならなかったのだ。  「先生、私っていない方がよかったんですよね?」  「『いない方がいい人間』なんて一人もいないよ。でもどうしてそういう風に考えるの?」  「だって、私には『生産性』がないから。二十歳になってもまだ高校生で親のすねをかじっているのですよ」  「人間の価値って『生産性』できまると思っているんですね」  「はい」  「それでは聞くけど、死にかけているお婆さんに周りの人は何て言うだろう?『お前は何も生み出してないから早く死ね』なんて言うと思う?」  「はい、思います」  この返答に対し、私は言葉に窮してしまった。この子は本当に人間の価値は「生産性」で決まると思っているんだ。そこで亮介は言った。  「それは違うよ。みんな『お婆さん死なないで』と言うと思うけど」  「私、留年してるから仕事もないだろうし、大学へ行ったとしてもみんなとうまくやっていける自信がないんです」  「『みんなとうまくやっていける』ってどういうこと?」  「みんなで合コンに行ったり、カラオケに行ったり---」  「ふーん。それが日陽ちゃんの『うまくやっていける』ってことですね」  「はい」  「僕は思うんやけど、日陽ちゃんっていつもハードルが高すぎるような気がするんや。そんなハードルなんかなくてもコースは走れるし、ハードルが高ければぶち壊したらいいんじゃないですか?」  「どうやって壊すんですか?」  「そうやねえ、一緒に考えていこうか?日陽ちゃんにとって学校って何?命をかけてまで行く所?僕は、例えばいじめられている生徒が『死にたい』なんて考えが少しでもよぎったら学校なんてやめてもいいと思っているんや」  「先生、私に学校をやめろと言いたいんですか?」  「(これはしまった。また余計なことを言ってしまった)いや、違うんや。今では通信制の高校なんていたる所にあるし、高校卒業資格認定試験に受かって大学へ進むっていう道もある。僕はいじめられている子を何度もカウンセリングしたことがあるけど、みんななぜか学校を出なくては社会から置いてきぼりにされるという幻想を信じているんや。そんなの嘘よ」  「本当に嘘ですか?」  「ああ、嘘や。大体学校の先生の言う『まともな生き方』って何?先ずはそこそこ名の通った高校へ行って、それから名の通った大学へ進学して、二十代か三十代で結婚して、家を建てて、子供が二人くらいできて、子供が大学を出て、結婚し、それから老人ホームへ入って死んでいく。まあ、そんなところだろう。でも例えフリーターでも飢え死にすることはないし、僕の友人なんかは引きこもっていながらも結婚した奴もいるし、たった七円しか持ってないのに北海道旅行を楽しんできた奴もいる。それから生活保護だってあるし、障害年金だってあるし、何とか生きていけたらいいんやないかなあ?」  「でも、私生活保護とか嫌です」  「ううん、日陽ちゃんにとって今一番大切なことは何だと思う?」  「わからないです」  「僕は病気を治すことだと思う。将来のことはそれから考えたらいいんやないかなあ。ところで、ご両親は何て言ってるの?」  「両親は一応分かってくれています」  「(それはいけない。美しい子は不幸でなくてはいけない)いいご両親やね。僕なんか『せっかく先生になったのに』なんて言われたよ」  「ふーん。でも先生はお休みもできるし、恵まれていると思う」  「そうか?そう思うか」  「ところで先生、どうして私をここへ連れ出したの?」  「僕はねえ、日陽ちゃんのことを生徒とは思ってないんや」  「じゃあ、何?」  「友達。同じ病気を持った友達。嫌かなあ?」  「そんなことないです。嬉しいです」  「(よかった。この子は俺の下心に気づいていないぞ)またお話しようね」  「はい」  こうして、亮介とこの子との関係はうまく行き始めた。彼女とは保健室やカウンセリング室でその後も何回もお話をした。  ある日のことである。日陽ちゃんは震えながらカウンセリング室へ入ってきた。いつものように話が始まる。  「先生、私、もう怖くて学校へ行けない」  「いじめられているの?」  「いえ、そんなことはありません」  「そうか。どうしてかなあ?」  「わかりません。ただ、学校が近づいてくると不安になるんです。だから医者から頓服の不安止めをもらったんです」  「何て言う薬?」  「コンスタン」  「オーバードーズはしてない?」  「してます。最近不安が大きかったので、コンスタンを五錠いっぺんに飲みました」  「そうか。まあ、睡眠導入剤なんかではないから大丈夫だろう。僕は昔眠れなくてデパスを何錠も飲んで、起きたら夕方の六時だった。朝の六時だと思っていたので驚いた」  「薬以外のいい方法ってないの?」  「ううん、そうやなあ。色々あるけど紹介しようか」  「はい」  亮介は知っている限りの不安神経症の治療法を教えた。  「そうやなあ、先ずマインドフルネスって知ってる?これは自律訓練法に近いんやけど自律訓練法よりは簡単や」  「自律訓練法ならやったことがあります。通信教育でやったんですけど、『腕が重い』もできなかったです」  「いや、これはもっと簡単な方法や。先ずは椅子に座って目を閉じる。それから、川の上流から葉っぱが流れてくるところを想像するんや。背はピンと伸ばしてな。それから不安になることを全部葉っぱの上に乗せて下流へ流す。五分もあればできる」  「ふーん」  「それから深呼吸をして終わり」  「とにかく電車の中でやってみます」  「それからねえ、今まで不安に思っていたことは何%くらい起こった?」  「〇%です」  「そう!不安の九〇%は起こらないと何度も言い聞かせる」  「そうですね」  「それからハンカチにラベンダーの匂いを染みこませて嗅ぐという原始的な方法もある」  「ふーん」  「他にも色々あるけどノートにとる?」  「はい」  彼女はノートと鉛筆を取り出して私の言うことを筆記し始めた。  「それから不安は呼吸に弱い。そして不安は十分しか続かない。もしも不安がやってきたら深呼吸し、十分、十分と唱えるんや」  「私、それ知ってます。駄目なんです。私、深呼吸すると過呼吸を起こすんです」  「そうか、これは駄目か。それから眼球運動という方法もある。今から少しやってみようか?」  「はい」  「では、僕が鉛筆を持つから、決して首を使わずに眼球だけで、それを追って」  「はい」  私は鉛筆を取り出すと、先ずは右上、次に左上、左下、右下と動かしていった。彼女はそれを目で追った。彼女の眼球運動は美しかった。究極の美であった。  「(こんな美しい目は見たことがない。ああ、美しい。最高の美学だ)」  「先生、何してるんですか?」  亮介は我に返った。  「(いけない、いけない。教師なのにまたいけないことを考えていた)」  「先生、不安を抑える方法って色々あるんですね」  「ああ、それだけ不安に悩む人間が多いってことや  次に耳つぼのマッサージという方法もある。自律神経のツボは耳たぶにあるから、耳たぶを強く揉むんや」  「ふーん、あ!本当や。気持ちが楽になってくる」  それは多分プラシーボ効果という奴だろう。しかし彼女は亮介を信頼しきっているようであった。  「それからバタフライハグという方法もある」  そう言って亮介は胸の前で腕を交叉した。そして交叉したまま胸に右手・左手でパタパタと叩いた。彼女も真似をした。  こうしてカウンセリングが終わり、彼女は「有り難うございました」と言って部屋を出ていった。   *   そして、この頃から男子生徒の間に奇妙な噂が立ち始めた。  「おい、日陽先輩(彼女は二十歳なので、クラスメイトから先輩と呼ばれていた)、よくカウンセリング室へ行くなあ」  「ああ、前は保健室やったのになあ」  「あれはなあ、大山に会いに行ってるんやと思う。今度証拠を掴んでやる」  「日陽先輩が大山と援交か?まさか?」  「いや、そのまさかを俺は疑っている」  「じゃあ、山本も誘って今度先輩がカウンセリング室へ行ったら証拠写真を撮ろうぜ」  「OK!やろうやろう」    そんなこととはつゆ知らずに日陽ちゃんは、またカウンセリング室へやってきた。 私がカウンセリング室でくつろいでいると、誰かがドアをノックした。  「大山先生いますか?日陽です」  「ああ、どうぞ」  日陽ちゃんが入ってきたが、いつものように着席しなかった。立ったままで何か話したげにしている。  そしておもむろに口を開いた. 「先生、バタフライハグよりもいい方法が見つかったんですけど---」  「え?いい方法って?」  「あのー、それはね、本当にハグするの」  「誰と?」  そう言ったかと思うと、彼女は座っている亮介に近づいてきて、いきなり背中に抱きついた。亮介は彼女の方に向き直り、思いっきりハグをした。そして口づけをしようと思った瞬間にカウンセリング室の戸が開いた。  バチ!  カメラのフラッシュがたかてる音が聞こえた。  「先生、今の瞬間、きっちりと撮ったで」  三人の男子生徒がにやりとしながら言った。日陽ちゃんはその場にうずくまった。  「この野郎、何をする」  亮介は三人の男子学生を追っかけた。三人は逃げ出したが、その途中でカメラを持った生徒が転んでしまった。  亮介はカメラをぶんどり、踏みつけて壊してしまった。  「おまえらは写真部の連中やろ。このことを一言でも言うてみろ。これじゃ」  そう言ってカメラの男子生徒を足蹴にした。そして彼の腹に何度も蹴りを入れた。残りの二人も呆然としてこの暴力行為を眺めていた。  亮介の理性はブチ飛んでいた。  何度も何度も蹴りを入れた。そこへ日陽ちゃんがやってきて、亮介の腕を後ろから抱きかかえて言った。  「先生、もうやめて。私が悪いの。ごめん」  この事件は結局有耶無耶になったが、その日から日陽ちゃんは冷たくなっていった。カウンセリング室へも来なくなった。  そして卒業式を迎えた。日陽ちゃんはやっと卒業できた。  卒業式が終わると日陽ちゃんが亮介の所へやってきて、一言そっと呟いた。  「嘘つき」  こうして二人の関係は終わってしまったのだ。
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