メンヘラ系教師の妻、不安神経症になる

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メンヘラ系教師の妻、不安神経症になる

(八)メンヘラ系の生徒達  亮介は、同じ市内にある普通科高校に転勤になった。以前いた高校よりもややレベルは落ちるが、高校は高校である。何も変わったことはなかった。  そして一年生の担任になった。  一学期の間は誰も精神的なことで悩んでいる様子もなく、また不登校生もいなかった。 しかし、二学期になると事態は変わってきた。  クラスに留美ちゃんという女の子がいた。左手は傷だらけであった。リスカの痕である。また、極端に痩せていた。恐らく拒食の傾向があるのだろう。中学時代、学校を七十日もお休みしたということであった。  そして、この子が休み始めたのである。  理由は漠として分からない。いじめられている様子もなく、孤立している様子もない。 朝、学校へ行くふりをして、お父さんとお母さんが出かけてしまった後、家へ舞い戻るのだ。   この頃の亮介の薬の量も中途半端ではなかった。アモキサン二錠の上にワイパックスやセパゾン、そして粉薬(何が入っているか分からない。癲癇の薬のテグレトールまで入っていた)、SSRIなどを大量に飲んでいた。  しかし、精神に障害のあることは獣のような鋭さでひた隠しにしていた。もしも分かったらどんな差別が待っているかわかったものではないからだ。  そして、頓服のSSRIなどは完全にオーバードーズしていた。  こんな状態であったが、なぜか一年目は上手くいった。  先ずは不登校の留美から何とかしなくてはいけない。  留美は寡黙な生徒であった。不登校の理由も何も言わない。教師だということを意識しているからかな? とも思ったが、どうもお母さんにもお父さんにも理由は判然としないようであった。  亮介は彼女の家へ足繁く通った。 彼女は絵が上手かった。だから美大への進学を考えているようであった。そこで彼女の家へ入るなり亮介は言った。勿論お母さんも聞いているので「学校だけが全てではないよ」なんて本当の事は言えない。そこで彼女に言った。  「君は本当に絵が上手いねえ。芸術家やねえ。芸術家っていうのは変わっていて当たり前だと僕は思っている。でも、二年生に上がれなくなったら大変やし、大体留美ちゃんが来てない教室は寂しいよ。お友達の恵美ちゃんもそう言ってたよ」  彼女から反応はなかった。お母さんが言った。  「こんなことで娘は学校へ行けるのでしょうか?」  「大丈夫です。長い目で見ていきましょう。私は前任校でカウンセリングを担当していましたから」  彼女には一人だけ友人がいた。健康な女の子で人なつっこい生徒であった。彼女が時々留美ちゃんを朝迎えに行っていた。彼女が来た時には留美ちゃんは学校へ来ることが分かった。  亮介は彼女にも留美ちゃんに声をかけるように頼み、そして留美ちゃんが来なかった時は必ず家庭訪問に行った。  ある日のことである。留美ちゃんが来てなかった。そこで亮介は例によって、彼女の家へ出かけた。お母さんが出てきた。留美ちゃんもやってきた。  亮介を見るなり、お母さんは驚いた様子であった。  「まあ、先生、この子また学校へ行ってなかったのですか?今日はきちんと家を出たと思っていたのに---」  「まあまあ、そんなに責めないで下さい」  「いいえ。責めます。この子はどうして学校へ行かないの? そんなことで大人をだませると思ってるの?」  そして学年主任も彼女をカウンセリングした。  結局、彼女の不登校の原因は分からなかった。しかし、その後は登校し始め、何とか学校へ来られた。留年は回避された。  亮介のもとにお母さんから手紙が来て「ありがとうございます。二年生になれました」と書かれてあった。   *  亮介はこの学年を最後まで見られなかった。一年で、今度は 病気休職に入ったからだ。  大体、休職に入るとほっとするのだが、半年経って出て行く頃には不安があった。  「俺はどうなってしまうのだろうか? このままきちんと毎日通勤できるのだろうか?」  その不安に押しつぶされそうになったが、半年間は何とか耐えた。しかし、この学校にも教師による教師に対するいじめがあった。それも年下の教師から、言葉による陰湿ないじめであった。  亮介をいじめる教師が側に来ると亮介はびくつき、心臓が高鳴るのを覚えた。  「今度は何を言いに来たのだろうか?」  ところが、今度はいじめではなかった。一年生の時亮介のクラスにいて、二年生から彼のクラスに入った木戸絵梨佳という生徒が不登校になってしまったのだ。  かの教師の名は会田と言い、年上の私をいびるのがまるで趣味のような男であった。  彼は私の耳元で声をひそめて言った。  「先生のクラスにいた木戸絵梨佳ですけど、一年生の時は休んでましたか?」  「(ああよかった。意地悪をしにきたのではなかった)」  「いえ、そんなことありません。彼女はとても良い子でしたよ。一度海外へ留学すると言ってたんですが、面接の時に寝坊をして行けなかったことがあります」  「ふーん、その時あたりから怠け癖があったのですね」  酷い言い方だと思った。彼女は何の問題もなかった生徒である。恐らく、あんたのクラスに入って不登校になったのだろうとも思った。  そして、廊下でこの子に遭遇した。一年生の頃に比べて少し太っていて、あまり健康的な生活を送っているようには見えなかった。    会田は時々亮介を捕まえては言うのだ。  「これはあなたの仕事でしょう? きちんとやってもらわなければ困ります」  「コンピュータで打ち出した個人情報がこんな所にありましたよ。困りますねえ」  言い方は至って馬鹿丁寧なのだが、その態度は明らかに「この馬鹿め」と暗に言っていた。  しかし彼は仕事ができた。亮介は何を言われてもただ黙って「すみません」を繰り返していたのだ。  そんな折、亮介の妻が不安神経症を発症した。 (九)妻の不安障害                 亮介と妻とは前任校にいる時に結婚した。盲学校に生徒として入ってきた子であったが、その後にお見合いをして結婚したのだ。  妻は嫉妬妄想を持っていた。どうも亮介が浮気でもしていると勘ぐっていたようであった。だからとんでもないことをやらかすことがあった。  亮介は五つめの学校で奨学金の係をしていたので、学生支援機構に電話をすることがあった。学校では対応できなかったので、家の電話を使って電話した。女性の係員が出た。  妻は、そこで何を思ったのか、学生支援機構へ電話をし直したのである。  「もしもし、主人が電話をしたと思うんですが、あなたは誰ですか?」  「学生支援機構の者ですけど」  「どんな関係ですか?」  電話は切れた。こんなことが続くと仕事にも弊害が出てくる。そこで亮介は兄を呼んで妻を注意してくれるように頼んだ。  兄は三十分ほどして車でやってきた。  妻は夕食を食べていた。そこへ突然兄が来たのである。  「お兄さん呼んだの? それか自分できたの?」  「呼んだんや」  そう言うと妻はお膳をひっくり返して暴れ始めた。  亮介と兄は話し合った。  「こりゃいかんなあ」  「警察に来てもらうか」  こうして警察がやってきた。精神病院への強制措置入院が決まった。赤穂の病院まで行くことになった。  その後、妻は一日で帰ってきた。  そして、もっと酷いことが起こった。  亮介は人権の係もやっていて、人権講演会が残っていた。  人権講演会で誰を呼ぶかは、大体前もって決まっている。しかし、校長から何の連絡もない。自分で講師を見つけなければならない。校長が嫌がらせをしているのだ。通常ならば校長から「こう言う人がいるけど」と打診があるのだ。亮介を困らせようと企てているのである。いつもながら汚い手だ。  この校長は亮介のことを良く思ってなかった。何度も学校を休職し、他の教師に迷惑をかけていたのだから当然であろう。  そして、この校長は亮介を何度か辞めさせようとした。名は上村紀輔という。  何度も亮介の授業を観察に来ては言った。  「あんたの授業やったらやかましい学校へ行ったらもっとやかましくなるし、進学校へ行ったらみんな寝るなあ」  亮介は授業で駄目印を押されたことなんかなかった。生徒達の授業に対する評価もよかった。「楽しく分かりやすい」という意見が大半であった。しかし、校務分掌(事務仕事)ができず、しょっちゅうお休みをするような教師は校長としては何としても辞めさせたかったのである。    ところがそんな折、講演を買って出ようと言う奇特な人が現れた。精神保健福祉士の本岡女史である。かなり年輩の方であるが、精神障害者のための作業所として喫茶店を営業し、これが順調に行っていたのだ。亮介の知り合いであり、彼もよくこの喫茶店を利用していたので顔なじみであった。  本岡女史は「いじめ」をテーマにして講演をするのならいい人がいると言った。  「躁鬱病の人やけど、原因がいじめやったからちょうどええんと違いますか?一度話してみます」 実は、本岡女史を呼ぶことに教頭などは不快感を顕わにしていた。精神疾患の専門家であって、教育の専門家ではないというのがその理由であった。そしてもう一つは校長であった。校長の考えは手に取るように分かっていた。  「せっかく『あいつが講師なんか呼べるはずがない』と思っていたのに誤算だった」というのが理由であることは明白だ。  校長は亮介が失敗をやらかすのを手ぐすね引いて待っていたのだ。  さて、本格的にその方を呼ぶ事になった。 亮介は、その作業所がアパートの近くだったこともあり、妻を連れて夜に打ち合わせに行った。  その時のことである。  たまたま電話が教頭につながった。なぜか本岡女史が待ってたように言う。  「先生なんですか?一度話させて下さい」  「教頭先生、講師の先生が話したいと言ってるのですけど」  「ああ、やめて。電話かわらんといて」  ところが本岡女史がどうしても話したいと言って聞かなかった。  この人はよっぽど「学校の教師」という者と話したいようである。その理由は定かではないが、多分精神障害の主たる原因が学校時代にあると思っていたからだろう。しかし、「学校の教師」なら目の前にいるのに何も教頭と話す必要なんかないであろうに---。  仕方なく電話を代わる。何か一言二言話したようであるが、すぐに電話は切れた。  次の日は土曜日であったが、これはまずいと亮介は思った。教頭を怒らせたかも知れない。否、必ず怒らせている。---というよりは、校長から「あの先生が失敗をやらかようにお前も仕向けてみろ」と言っているのに間違いはなかった。  亮介は場の空気を読むのが下手である。しかし教頭を怒らせたことは容易に推察できた。  「しょうがない。明日謝りに行こう」  そう言うと、妻が  「私も一緒に行く」と言った。  土曜日、校舎内で先ず校長に出会った。  講演会の時程表を見せた。  「これ、昼休みあらへんがな。生徒の人権踏みにじってるわ。あのなあ、昼休みは生徒にとって休憩時間と決まっているねん」  「いや、教務にたのんで四十五分授業にと思ったんです。そうしないと向こうの都合が合わないんです」  と言いかけて、亮介は話を止めた。  何を言っても無駄だ。言い返されるに決まっている。こいつは「荒さがし」をしているだけなのだから---。  次に問題の教頭である。頭がきれいに禿げあがって太っている。  玄関の入り口で鉢合わせになった。  「教頭先生、昨日はすみませんでした」  しかし教頭は許さなかった。  いきなりふんぞり返ったと思うや否や  「何で電話代わったんや?」  である。  亮介は即土下座をした。部活動の生徒や他の教師も見ている。  「申し訳ございません。おい、お前も土下座せえ」  妻も土下座した。  「主人が学校でいかに蔑まれ、泣くような思いをしているか、ついてくると言うのならばわかったらいい」  と亮介は思った。  しかし、教頭は土下座を見ると益々ふんぞり返った。これでもかと言わんばかりに威張って腹を突き出し、頭をのけぞらせた。  「何で電話代わったんや?」  「申し訳ございません」  その後、どうやって教頭の怒りが収まったかは定かではないが、夫婦そろって土下座をしている一教師のことなど教頭にとってはどうでもよかったのだろう。この教頭は校長を狙っていたのだ。そして、校長になるためには現校長の推薦状が必要だったのである。  亮介はその日、車で帰ることにした。  妻を助手席に乗せた車が踏切にさしかかった。  亮介は悲しかった。かつては人の三倍働く教師と言われ、合気道部と吹奏楽部の顧問を兼部して夜遅くまで頑張っていた時期もあった。しかし今ではただの問題教師なのだ。こんな問題教師はいなくなればいいのか?それならば校長や教頭のお望み通り、この世からいなくなってやる。明日の朝刊に出るから見ておけ!  そう思って、亮介は急に踏切の中でエンジンを切った。  「何するの?」  妻が尋ねる。  「一緒に死のう」駄目教師にはそれしか残ってないと亮介は思ったのだ。しかし、妻の反応は意外なものであった。  「嫌よ」  「何で嫌なん?」  「私、死にたくないもん」  「此処まで付いてきて今更何言うとんじゃ?死ぬぞ!」  この妻はかつて「あなたが死ぬなら私も死ぬ」と言ったことがある。それは嘘だったのか?否、嘘だったのであろう。そしていざ本当に死ぬとなると恐怖が生まれたのであろう。  警報機が鳴り出した。遮断機もゆっくりと降りてくる。  「助けてー、私死にたくない」  窓を開けて妻が叫ぶ。  「窓閉めい!何で嫌なんじゃ!」  「あなた狂ってる」     後ろを見ると、さっきまでクラクションを鳴らしていた二台の車が既に踏切外へ避難している。  その時、亮介の脳裏に今までの人生がフラッシュバックして映し出された。  皆から嫌われていた中学時代、ピアノの練習ばかりしていた高校時代、そして古武道や空手に打ち込んだ大学時代、そして教師になって最初に赴任した高校での恋、それらのものが瞬く間に流れて行った。  その時である。誰かが助手席の窓越しに叫んだ。亮介は夢から醒めたようであった。  「先生、何しているのですか?」  自転車で通りがかった男子の卒業生である。  我に返った亮介はただちにエンジンをかけ、車を発進させた。  電車が踏切を通過していった。もし一瞬だけ車の発進が遅れていたら大事故である。  妻はお漏らしをしたらしく、座席が濡れていた。  このあたりから妻の様子が変わって来る。 食事の用意や洗濯を億劫がるようになってきたのだ。  そして年が改まり、一月になった。  突然、妻が奇妙なことを口にし始めた。  「私、今日洗濯できるのかなあ?私、実家へ帰れるのかなあ?」  亮介には何のことだかさっぱり分からない。しかし、いつもとは明らかに様子が違っていた。洗濯や実家への帰郷なんか一人で十分にできるはずだ。何かおかしい。  そう。妻は不安神経症を発症したのだ。  その日の夜、妻は妹に付き添われて実家へ帰った。  そして二度と帰ってこなかった。  そして、亮介は特別支援学校へ転勤になった。  亮介は妻の実家を訪れて告げた。  「実は帰ることになった。ついてきてくれるか?」  「嫌。遠いもん」  「じゃあ、もう別れるか?」  「そんなん嫌」  妻の母親が口をはさむ。  「何が遠いよ。お姉さんなんかイギリスよ」  「嫌、遠い」  そして亮介は一人でアパートに移り住んだ。妻がいつか帰ってくるのを待ちながら---。  しかし妻は帰らなかった。  なぜか妻は声まで変わっていた。子供のような声になっていた。歩き方も普通ではなかった。真っ直ぐには歩けず、老人のように腰をかがめて歩くようになった。彼女からは以前から感じていた性的魅力も全く感じさせないくらい変わり果ててしまっていた。  そして、亮介が島の特別支援学校に来て二年目に二人は市役所へ離婚届を提出しに行った。  その後の妻がどうなったかは知るところではなかった。  何度か電話をしたが居留守を使われた。  何でも知的障害者の施設に入って、まるで子供のようになってしまったと言うことである。退行したらしい。
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