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メンヘラ系のおっさん、ロシアへ飛ぶ
「メンヘラ系の人達」
(一)不安がやってきた
またやってきた。精神が崩壊するのではないかという不安、誰にも助けられない不安、それは突然やってきて心までじゃなく、魂まで啄む。
亮介は幼少期より死ぬことが怖かった。相矛盾することではあるが、死の恐怖より死を選び取ろうとしたこともあった。
それは、ある日突然やってきた。もう亮介が齢五十を超えたある日、やってきた。
亮介の元々の病名は「鬱と境界型統合失調症」であった。だからそんなものには縁もゆかりもないものと彼は思っていた。
この世界には電車に乗れないという人々が存在する。ある日突然電車に乗っていて、不安に襲われ、それがまたやって来るのじゃないかという不安、不安に対する不安のために電車に乗れなくなってしまったのだ。
幸い、亮介は電車には乗れるし、遠出もできる。しかし形を変えた不安に襲われて「死ぬんじゃないか」と思い、社会生活にも影響が出始めた。
この病の厄介なところは、「誰に言っても理解されない」ということである。否、むしろ理解できなくて当然だろう。「どうして電車なんかそんなに怖いの?」「外へ出ることくらい簡単だよ」などという心ない言葉を聞いて、「はい、おしまい」なのである。その理解されないことも病状の悪化に作用し、最終的にはムンクの「叫び」のような状態になるのだ。
亮介は三十一年間高校で教員を勤めてきた。否、こんなことでよく勤まったと思う。
最初はマンモス校に勤めていた。全クラス十クラスあって、一つの教室に五十人が詰まっていた。そんな所でも平気で、しかもいささか自信過剰で授業を行っていた。
やがて少子化で、各クラス四十人になったが、亮介には怖いという感情は起きなかった。校区内で一番上の学校に勤めたこともあったし、言っては悪いが、最底辺の学校にいたこともあったからだ。
しかしそれは起きなかった。
亮介が教員になって十七年目に町の学校への異動命令が出た。不安はなかった。しかし元々が鬱病だったので、あたかも三十九度の熱があるような倦怠感に襲われることがあった。
町の学校では専門科目の世界史ではなく、日本史を教えることになった。それから二年生の担任を持たされた。
日本史は亮介の専門ではないので、夜遅くまで学校に残って教材研究をした。
それから、担任は二年生を持たされた。みんな真面目な生徒達であり、不安になるべき要素なんかどこにもなかった。
しかし、それは何の前触れもなくやってきた。
亮介は担任経験があまりなかったので、特に進路のことが分からなかった。「F日程って何?」「AO入試って何?」なんて進路の教師に聞きまくった。それでも分からなかった。
そして事件が起こった。勿論、事件といっても、たいした事件ではない。
この学校では、生徒と担任教師との間で交換日記を書いていた。いつ、またどういう理由でそれが始まったかは分からない。しかし、全員の分を読んで、解答をつけて返すのは並々ならぬ作業であった。これに三十分から一時間程度の時間を取られた。
そんな折、顔中ニキビだらけの、お世辞にも可愛いとは言えない女子生徒が交換日記に文句を書いてきたのだ。
「○○短大は行かない方がいいってどういうことですか?」
○○短大。それはかつて○○キャンパスランドとも言われ、女学生が遊ぶため、遊興的な学生生活を送るために作られた学校だった。亮介はそれも知っていた。知っていたのだが、こんなことを書けば気を悪くするに違いない。そう思った彼は彼女を呼び出して言った。
「○○短大は介護の専門の学校ですよ。介護士なんて大変な仕事ですよ。本当になりたいのですか?どうしてですか?」
すると彼女はふくれっ面になって言った。
「人の将来にケチをつけないでよ。○○短大がなぜいけないのかだけ聞きたいだけです」
「いや、ケチをつけているわけではない。本当に介護師なんて大変な仕事をしたいのですか?と聞いただけや」
「したいです」
そう言って彼女は職員室を去っていった。
それから彼女の交換日記での攻勢が続いた。
「よく知りもしない大学について、評判が悪いなんてどうして言えるのですか?」
そして亮介はこのブスのためにクラスへ行くことがおっくうになってきた。他の生徒達はいい生徒ばかりだ。しかし、この一点だけが彼を悩ませた。
そしてある日、彼はタバコを吸うベランダで嘔吐してしまった。嘔吐は何度も続き、一日で十回ほど吐いてしまった。それだけではない。昔、鬱病になった場面がありありと蘇ってきたのだ。
(二)神経症発症
1988年、ソウルオリンピックが開かれた。その年、亮介は一番信頼していた女生徒との関係が悪化し、悩んでいた。
それまでは「人の三倍も仕事をする教師」と呼ばれていたのだ。
そして、その年の六月に彼は心療内科を訪れた。
即「鬱病」の診断が下った。医者はトランキライザーとドグマチールを処方した。また、学校の方は半年間休むことになった。亮介が初めてもつ三年生の担任中だったので、三年の担任団の先生からかなり酷い言われ方をしたようで、そのことは学年外の教師から伝わってきていた。
この時、亮介の脳裏に初めて「自殺」の二字がよぎった。
結局は、卒業生を出さずに、また卒業式にも出ずに学校へ復帰した。
理由は分からないのだが、復帰後の仕事はとてもきつかった。実際にきついわけではない。部署としては最も楽な校務分掌を持たせてもらっていたのだ。しかし授業自体がおっくうであった上に、それまでにはなかった多くの失敗をやらかすようになっていった。
「こんなはずではない!」
亮介はそう思ったが、その後に低辺校をたらい回しにされて人生が狂ってしまったのだ。
病気のきっかけとなった生徒ではなく、新しく持った生徒からボロっカスに言われた。
それでも亮介は考えていた。
「こんなはずではなかった」
そして、疎遠になっていた実家とも頻繁にやり取りするようになっていた。
電話の相手は父親であった。亮介の父親は小学校の校長であり、管理職だったので、様々に頭を回し、亮介を播州から生まれ故郷の淡路島へ呼んだ。
淡路島では進学校として、洲本・津名・三原の三校があったが、最初に帰郷した教師にはそんな学校への転任はできないことになっていた。
亮介は病気を隠しながら、淡路盲学校へ転勤になった。年齢はアラサーになっていた。
医者は明石の医者から精神科の新淡路病院や県立病院の精神科なんかをたらい回しにされた。
聞いたこともないトランキライザーや抗鬱剤を飲むようになった。(その後、亮介は完全に薬中毒になってしまったので、今では彼の飲んでいる薬には詳しいが、当時は医者に言われるままに飲んでいた)
この淡路盲学校で、亮介はなぜか生徒からも同僚教師からも嫌われた。理由は「全く仕事をしない」ということであった。ことに校長と教頭、そしてなぜか実習助手などからいじめられた。
そこで、わずか二年で異動届を出した。あっさりと通った。農業高校へ行くことになった。
農業高校は淡路島の北にあり、明石と近かったので、亮介はまた明石の心療内科の医師に通うことになった。
入院はしなかったものの、薬の種類と量は確実に増えていった。一体、医者という所は病気を治す所なのに、薬は増えるばかりで、本当に治っていくのだろうか?
そんな不安が彼の心の中に芽生え始めた。
そして、その学校での一年目に一年生の担任を持った。
亮介は初任校のやり方に完全に賛同していたので、最初から体罰を平気で行った。忘れ物をしただけでビンタを喰らわせていった。総スカンをくらった。
そして彼らが二年生になった時に担任を降ろされた。
この病気の最も辛いところは、「誰も病気のことを分かってはくれない。怠け病だと思われる」ことである。
実際に先ずは校長のパワハラがあった。(当時はまだパワハラという言葉も概念もなかった)
職員室でくつろいでいると、突然溝田校長がやってきた。
「先生方があんたのことおかしいって言ってるぞ」
「おかしいってどういうことですか?」
「何か薬を飲んでいるとか言ってるぞ」
「精神科の薬です。飲んでいます」
ここで正直に答た亮介が馬鹿だった。校長は「こいつは辞めささなくては」と思ったのであろう。それからパワハラの嵐が吹き荒れた。
「あんたの車はゴミ箱か?教育的やないで」
「あんたのおかん、給料から六万円も取ってるのか?がめついのう」
「この出張伺い書き直しや」そう言って出張伺いの紙をクシャクシャにして放り投げる。
「車を花壇に乗り上げたりして、今度そんなことやったら許さんぞ」
「今度土下座なんかしたらあかんぞ」
まあ、こんなことは序の口であった。
そして担任生徒が次々と問題を起こした。
タバコに集団でのいじめに怠学である。
亮介は彼らを呼んで怒鳴りつけた。結局やっていることは校長と大差がない。そして担任を降ろされたのである。校長は言った。
「あんたの歳で、こんな楽なポジションはないで」
そんな頃であった。松本という名の農業科の教師が赴任してきた。彼もかつて自律神経失調症を体験しており、同じ一年の副担任だったから大変気が合った。
彼から「完全自殺マニュアル」を教えてもらったし、亮介は「山田花子」を教えた。
亮介は「完全自殺マニュアルの著者の鶴見さんは天才だ」と思った。そして薬から始まって、首つり、樹海など、事細かく自殺の方法が書かれていた。彼は、その本を手垢ですり切れる程読んだ。
その後、「完全自殺防止マニュアル」などという本が出たが、どれもこれも通り一辺倒の道徳が書いてあるだけで、「完全自殺マニュアル」よりは確実に見劣りした。そして、いつの間にかこの本が亮介のバイブルになってしまった。特に薬の所がよかった。自殺を推奨し、賛美する論調もよかった。
当時の亮介は自殺に憧れていたのだ。教育にも完全に自信を失っていた。
そんな折、松本先生が「お笑い北朝鮮」という本を紹介してくれた。これも面白かった。テリー伊藤が北朝鮮の現実を面白おかしく綴った本で、亮介もなぜかこのアジア最後の独裁国家に興味を持っていたからであった。
ところで、亮介はここで鬱のスパイラルというものを発見した。それはこういうものである。
鬱病で仕事を休む↓帰ってきたらいじめられる↓鬱がさらにひどくなる↓休む↓帰ってきたらいじめられる↓鬱がひどくなって休む。この繰り返しなのだ。
亮介の薬の量と種類は確実に増えていった。
当時飲んでいた薬は、抗鬱剤のアモキサン二個を毎食後、トランキライザーのセパゾンを毎食後一個、ロラゼパムも毎食後二個、そして粉薬を毎食後。粉薬には何が入っているのかは分からなかったが、処方箋を見てみると、フルメジン、アルジオキサ、カルパマゼピン、ピペリデン塩酸、そして胃腸薬なんかが入っていた。また、あさ夕食後に脈の乱れを治すアロチノール、夜にはパキシル、不安時の頓服としてpzcなどが入っていた。pzcなどは確実にオーバードーズしていた。
そして、鬱に加えてパニック障害(不安神経症)も併発し、最終的には統合失調症との診断も出た。
当時の亮介は学校を変えてもらったらきちんと仕事ができると思っていた。しかし、後にそれは間違いだったことが判明する。
やがて校長が替わった。校長というのは大体二、三年で交代する。細身で神経質そうな柳田という校長が赴任してきた。そして、亮介はなぜか校長に呼ばれた。
「あんた、一年ぐらい仕事休んで外国にでも行ってこい」というお達しが出た。
現在では、教師が休職した場合は海外へ行くことは厳に禁じられている。しかし当時はまだ教師に対しては甘かったのである。
亮介は医者から診断書をもらってきて一年間休むことになった。そしてソ連崩壊直後のロシアに渡った。
飛行機はエアバスであった。ロシアが西側から初めて買った飛行機らしい。CAが「この飛行機はアエロフロート関空発モスクワ、シェレメチェボ空港行きのスクリャービン号です」と告げた。
そのスクリャービン号に乗って先ずはモスクワに着いたが、すぐに乗り換えてサンクトペテルブルクへ向かった。せっかくロシアへ行くのだから先ずはサンクトペテルブルクを見たいと思ったからだ。国際線のシェレメチェボ2からタクシーで国内線のシェレメチェボ1へ向かい、数時間待ったら飛行機が来た。
モスクワからサンクトペテルブルクへの飛行機は旧ソ連製のツボレフであった。客をぎっしりと詰め込み、機体はシェレメチェボ1を離れた。やがて機体は大きな音を立ててサンクトペテルブルクに到着した。
今度はタクシーで行かなくてもよい距離にホテルはあった。
亮介は一週間の観光を楽しんだ後、またモスクワへ戻り、予約してあったアパートへ転がり込んだ。
「さあ、ここで何をするんだ?」
勿論、ロシア語の語学学校へ入ることは決まっていたが、それから何をするのか決めてはいなかった。
そこで先ずはアルバイトを探した。外国人には力仕事しかないと思っていたら、日本語学校の教師の職があったので、とにかく申し込んだ。
「英語はできるがロシア語はできない。まあ、駄目だろうな」と思っていたら、なぜか「採用」の通知が届いた。
亮介は、昼は日本語学校で働き、夜はロシア語の勉強をした。「ズトラーストビーチェ」などの簡単な言葉から入り、徐々に上達していった。
日本語学校では日本語以外禁止、ロシア語学校ではロシア語以外禁止であった。
亮介がロシア語をやろうと思った経過はよく分からない。既に英語と韓国語は話せ、大学の第二外国語はドイツ語だったが、それにロシア語が加わった。
「しかし、モスクワの町はひどい」
最初の頃、亮介がモスクワを探索していると、よく警官に英語で話しかけられた。その内容は大体が、「ここは通ってはいけない」だった。「殺されてもしらないぞ。昨日も一人殺された」と言った警官もいた。警官には袖の下から百ドル紙幣を渡すと大抵は通してくれたのだが---。
そしてロシアへ来て二週間が経過した。最も恐れていることが起こった。
精神科からもらった薬がなくなってきたのだ。
モスクワには国立の精神病院があった。ここでとんでもない薬を処方されたのか、その後、何度も吐き気に襲われた。
そんな頃、彼はナターシャと知り合った。日本語学校の生徒であった。年齢は26歳で彼とも近い。彼は既に30を超えていたが、東洋人というのは若く見られるらしい。ベストカップルだと亮介は自分でも思った。
ナターシャの髪は黒、目も黒、あたかも東洋人のような顔つきをしていた。身長もスラブ系にしては低かった。いつも銀縁の眼鏡をかけていたが、それが何の違和感もなかった。 いつの間にか亮介は彼女と同棲を始めた。彼女としては日本人とつきあって、日本語が上達すればよいと思っていたようだ。
そして徐々に彼女のことが分かってきた。彼女も心の病を抱えていたのだった。
状況が似ていた彼と彼女は激しく求め合った。
「ビザが切れたら結婚して日本で暮らそう」と話し合った。
ところで、海外にいる時には亮介の鬱も不安も完全に消えていた。これは全く不思議な現象である。医者は私の病気を「一種の学校恐怖症」だと言ったが、それは本当のようだ。彼は学校が怖かったのだ。人を傷つけることが平気な教師があまりにも多すぎる。だから鬱のスパイラルが起こるんだ。
そして亮介は半年後に大変な事件を起こしてしまう。恋人のナターシャを殴り殺してしまったのだ。
それは彼のアパートではなく、ナターシャのアパートで起こった。
彼女がなぜか亮介と日本へ来ることを渋り始めたのである。
「どうして日本へ来ないの?約束だったじゃないか」
「両親が反対するの。両親はまだソ連時代の感覚が残っていて、日本はアメリカに追随する悪しき資本主義の国だと言うの」
「それなら俺が説得する」
「いや、やめて。あなた両親に殺される」
「何を?お前こそ怖くなったのだろう?」
そう言って私はナターシャの腹を蹴り上げた。彼女は「うっ」と言って倒れ伏した。その気絶している女の首を亮介は絞めた。
何分くらい経ったろうか?ふと彼は我に返った。彼女は気絶したままだ。いや、死んでいるかも知れない。
怖くなった亮介はアパートを後にして、誰にも見られていないことを確かめ、外へ出て思いっきり走り、地下鉄に乗り込んだ。
「大変だ。殺したかも知れない」
そう思った彼は翌日の新聞に目を通した。幸い、彼女のことは載っていなかった。
亮介はすぐに帰りの飛行機を予約した。飛行機は一週間後に成田へ行く便であった。その一週間、彼は生きた心地がしなかった。もしかしたら、このロシアで警察に逮捕されるかも知れない。そう思ったが、一週間何もなかった。
亮介はシェレメチェボ2空港へ急ぎ、日本へ帰ってきた。
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