昭和時代にはこんな校則が本当にありました

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昭和時代にはこんな校則が本当にありました

「ブラック校則」 (序)  浩二はその高校へ赴任した。  ---と言っても非常勤講師としてであった。  時は一月。倫理を教えていた教師が病気になったので、二ヶ月だけ講師として来てほしいという打診があったのだ。  既に浩二は教員採用試験に合格していた。だから本当は四月から赴任するのだが、彼は既に大学を卒業していて、家で農家の手伝いをしていたところを、播州にある高校からお呼びがかかったのだ。  浩二は家にあった倫理・哲学の本を持って、慌てて引っ越しをした。引っ越した所は姫路であった。ここからだと約一時間で電車と自転車で十分に通勤できる距離であった。  校長・教頭・教科主任と簡単に挨拶をし、早速一月の後半より教壇に立つことになった。 急な話ではあったが、これで念願の教師になれると思って有頂天であった。  元々は世界史で教員試験に受かったのだったが、倫理を教えることになり、慌てて哲学書なんかを買い込んだのである。  そこで、とにかくは本を買い込んで単元に関係のある合理論と経験論について調べ、十分に自信をつけてから授業に臨んだ。  この時の浩二の年齢は二十二であり、生徒とほとんど変わらない。社会経験も薄く、頼れる人もいない播州で、とにかくいきなり教えなくてはならないのだ。しかし、不安よりも教えることのできる喜びの方が勝っていた。  「家にひっこんで農業なんかやってられるか?」  そう思って喜び勇んで学校へ行った。 *  二年生の教室へ入った。  「あ!新しい先生が来てる」という女生徒の声がした。  委員長が授業開始の号令をかける。  静かである。  こんなに静かな高校なんか見たこともない。浩二の母校も進学校であったが、もう少し騒がしかった。学生服の男子とセーラー服の女子は授業が始まると微動だにしなかった。  しかし、それよりももっと浩二を驚かせたことがあった。  授業が終わって一年生の教室を少し覗いてみると、男子生徒全員が丸刈りだったのだ。 「何なんだ? この学校は?」  浩二の感覚では、丸刈りというと、野球部に入っているか、謹慎処分を受けているか、何かの部活動をやっていて試合で負けたかのいずれかであった。しかし、まがうことなく一年生男子全員丸刈りであった。  やがて学校のことがおぼろげながら分かってきた。  この学校は新設校であった。勉強の出来はかなりよい学校であるが、戦前からあった東高校や西高校に入れなかった生徒達が来ているらしい。しかし、同じ校区内にはおびただしい数の学校があり、上から数えて偏差値では三番目の学校である。生徒の質はかなり高い。  それから、一時間目の時間中に数名の生徒が職員室前の廊下に正座して並んでいるのを見た。何か悪いことをして反省させられているのだろうか?  別の教師に聞いてみた。  「あの正座している生徒達は何ですか?」  「遅刻や」  どうも始業時間に遅れて入ってくると校門で教師が数名待ち構えていて、そのまま職員室前の廊下へ連れてきて正座させるらしい。明らかに学習権の侵害だ。一時間目が欠席になってしまうではないか。  それ以外にも、この学校にはブラック校則が山ほどあった。  服装に関する規定も厳しかった。  靴下は白でワンポイントのみ許される。男子のズボンはワンタックまでは許されるがツウタックは禁止。女子のスカートは膝下十㎝。その長さを測るための生徒指導部特製のもの差しまであった。下着の色まで指定されていた。  教師はそのもの差しを持って週に一回女生徒のスカートの長さを計測していた。  また、生徒達の大半は自転車通学であったが、自転車の並進は三日間の通学許可証の取り上げ。二回目に同じことをやれば二週間取り上げ。三回目は一ヶ月と決まっていた。 それから喫茶店へ入店することは禁止、冬にマフラーをすることも禁止、紙バッグは禁止、巾着袋も禁止されていた。               *  そうして四月。浩二は正式な教員となって、この学校に赴任した。  よく、教師の間では「この学校はわしには向かない」などと言うことがある。しかし浩二が教育自習でも言われたことは「自分を学校に合わせるんだ」ということであった。  浩二はこの不条理な校則でがんじがらめになった学校に自分を合わせようと苦心した。しかし、合わせようとしても合わせられることと合わせられないことがある。例えば生徒から「どうしてこんな校則が必要なのですか?」と聞かれると即答できないものが山ほどあった。  そんな中で正式な教員となった浩二は、先ずは担任は持たせてもらえなかった。校務分掌は視聴覚部(視聴覚教材やコンピュータを管理するしごと)に配属された。それから部活動は空手部と吹奏楽部の二つを持たされた。  最初の頃は授業でも部活動でも校務分掌上の仕事でも、浩二はそつなくこなした。  特に授業の分かりやすさには定評があった。授業は一年生の現代社会数クラスと二年生の文系の世界史と理系の世界史を持つことになった。  昭和が終わる少し前の話で、中曽根さんが総理の時代であった。
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