ささやかな幸せの未来

6/11
前へ
/11ページ
次へ
 その後の事は、断片的にしか覚えていない。  多くの友達が迎えに来た保護者と一緒に学校を後にしたけれど、私のところには誰も来てくれなかった。  お父さんの勤務先は地元の建設会社だから、今頃復旧作業に追われててんやわんやのパニックかもしれない。  お母さんは隣町のスーパーにパートに出ていた。地震の時はまだ働いていたはずだ。幸い津波の心配はなさそうな内陸の店だけど、その後どうしただろうか。  一番心配なのは、うちの隣に一人で住む祖母だった。一人では車の運転もできない。無事避難できただろうか。それともまさか……。  携帯も繋がらず、誰とも連絡がとれない。一人、また一人と帰っていくクラスメートの背中を目で追いながら、寒さと寂しさに震えながら一夜を明かした。  町役場の人が数台のバスと一緒にやってきたのは、翌日の朝早くだ。 「浪内村まで避難します。全員、今すぐ避難を開始してください。移動手段のない方は、バスに乗ってください」  意味が分からなかった。  もう津波は引いただろうし、そもそも高校までは上がってこない。まさかこれからもっと大きな地震と津波が来るとでも言うんだろうか。  わけがわからないまま乗せられたバスの車内で、「原発がやばいらしいよ」という噂話が小声で交わされるのを聞いた。  やばいってどういう意味だろう。何を言ってるんだろう。  バスが坂を下っていく途中、ちらりと見えた海際の様子は、一瞬だけにも関わらず私の目に強く焼き付いた。  建物が立ち並んでいるはずの場所には、平たい土地しか残っていなかった。  そこにあったのは、爆弾でも落ちたかのように荒廃した瓦礫の大地でしかなかった。  道路の横に立ち並ぶ建物も一様に屋根瓦が落ち、ガラスが割れ、傾きかけた無惨な姿を晒していて、私は目を背けるように、ずっと下を向いたままバスに揺られ続けた。  その時の私は、それが最後に見た富葉町になるなんて、思いもしなかった。  いつもなら車で三十分ぐらいの道は蟻のように車が連なって遅々として進まず、浪内村の体育館に着いた頃には夕方になっていた。  私はそこで、祖母と再会した。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加