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結論から書くと、私達がお母さんと再会したのはそれからひと月以上経ってからだ。
原発事故のせいで強制避難を余儀なくされた私達の町では、津波による行方不明者の捜索は思うように進まず、県警と消防が合同で活動に乗り出したのは四月十四日を過ぎてからの事だった。
実にひと月以上も、私達の町は放置され続けたのだ。
避難先となっていたコンベンションホールの片隅で、日々送られてくる身元不明の遺体や持ち物の写真を、目を凝らして隅々まで確認する日々が続いた。お母さんを探すためじゃない。お母さんは生きているという希望の灯を消さないためだけに、私達は必死だった。
お母さんが運転していた軽自動車が瓦礫の中から見つかっても、その中からお母さんの免許証や保険証が入った財布が出て来ても、実際にこの目で遺体を目にするまでは絶対に信じられなかった。信じたくなかった。
そんな中――たまたま手に取った写真の中に、お母さんが着ていた服と同じような布地を見つけてしまったのは、私だった。
きっと全体を写すのは躊躇われたのだろう。一部分だけを無理やり接写したような損壊した遺体の一部で。でもそこに張り付いた安っぽい花柄は、お母さんが好んで着ていたインナーによく似ていた。
信じられない思いだったけれど、お父さんは念のためにとすぐさま連絡を入れた。
DNA鑑定の結果、遺体はお母さんのものだと判明した。
車や遺体の見つかった場所から推測するに、やはりあの日、お母さんは地震の後自宅へと向かったのだ。多分、家に残して来た祖母の身を案じたのだろう。その途中津波が押し寄せ、お母さんもろとも海中へと引きずり込んでしまった。
私達の所に戻って来た時、お母さんは骨だけの姿になっていた。
それがお母さんだなんて、信じられなかった。
「戻って来てくれただけでありがたい」
けど祖母はそう言って泣いた。津波で行方不明のままになった人は数え切れないほどいたから、そう考えればマシなのかもしれない。
でも、そんなの気休めだ。
骨でも良かったなんて、心の底から思えるはずがない。
私は生きたお母さんに会いたかった。
お母さんがどこかで生きている事だけを、願っていたのに。
まさかあのまま、お母さんと二度と会えなくなってしまっただなんて、私にとって到底受け入れられる現実ではなかった。
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