うちに夫がいる

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 ヨシダ・ミサエは30才。1人暮らしを始めて半年になる。といっても、その理由はいいものでは無い。半年前のこと、結婚4年目になる夫と2人で暮らしていたのが、夫の不倫が分かった。話し合いを持つ時間もなかった。不倫がバレたとたん、夫は相手の女のところに行って、そのまま向こうに居ついてしまい、帰ってこなくなったのだ。それ以来、ミサエは1人暮らしというわけだ。  夫リョウイチは某メーカーの営業マン。その浮気の相手はミサエより3つ年下でタドコロ・ケイコと言う実業家らしかった。ケイコという女は、親に資金を出してもらって始めた商売が順調で、遊ぶ金にも事欠かない。リョウイチにも、「どうせなら仕事を辞めて、私の仕事を手伝って」と言ってるらしかった。それで、リョウイチはケイコの所に行って帰って来なくなったのだが、営業の仕事は辞めずに勤めているようだった。  もしリョウイチがこのまま帰ること無く、ミサエと別れるのなら、このマンションもどうにかしなければならない。このマンションは、去年購入したばかりで、ローンはまだ25年は残っている計算だ。今のところリョウイチは以前のとおりにローンの支払いは続けているし、生活費も銀行口座に入っている。もしこれが途切れたらどうなるか。ミサエも仕事をしているが、彼女一人の収入で払い続けることは難しい。もし離婚するなら、すべてを清算してゼロからやり直す覚悟が必要だろう。ミサエにしてみれば、夫の不義を黙って見過ごしにしていれば、生活はしていけるということだ。この状況をミサエは、いまだ、誰にも話せずにいた。「みっともなくて、情けなくて、話す気にならない」というのが率直な気持ちだった。同情などされたくないと思ったし、かといってリョウイチ以外の男にすぐさますがりつきたいなどという気持ちもない。半年も帰って来ない、ろくに連絡もよこさない夫と、関係修復することなどないだろう。「とにかく、悪いのは向こうなんだから、リョウイチも相手の女も、弁護士に相談して、こてんぱんにしてもらうわ」。ミサエは最近ずっとそのことばかり考えていた。  ミサエは仕事の帰りにコンビニによると、弁当にサラダ、缶のチューハイを2本買った。前は1本飲めば満足だったが、最近はずっと2本かそれ以上飲んでいる。大した量じゃないかもしれないが、少なくとも倍になったと考えると、違いは大きい。それに、自炊も減って、ほとんどこうして出来合で済ませるようになった。仕事をしている間だけ、余計なことを考えずに集中できる気晴らしになった。あとは酒でも煽って眠るだけの生活になっていた。「全部放り出して、実家に帰ろうか」。そう思うこともあったが、親の顔を思い浮かべると、消極的になった。  マンションの前の通りに差し掛かったときだった。遠くに見えて来たマンション2階の自宅に明かりが点いているように見えた。ミサエはビクッとして足を止めて、身近の塀に沿って身を隠した。確かに自宅に明かりが点いている。見ていると、ベランダに人が出て来て、マンション前の道を伺っているように見えた。それは遠目でもリョウイチだとミサエにはすぐ分かった。「連絡も無く、何しに帰って来たのかしら」  ミサエは少しの間、自宅の様子を遠くから伺っていたが、リョウイチが部屋に入って窓を閉めたようだったのを見て、また歩き出した。「何か話があるって言うの?もしかして、あの女と別れて戻って来た?……冗談じゃ無いわ」歩きながらミサエは考えを巡らせて、そしてそれらの想像にどれも腹を立てた。「好き勝手にして、何の用があって、こんな時間にうちに来るのよ」ミサエは、考えているうちに、 「あっ……」  ある考えに思い当たった。 「もしかしたら、私を殺しに来た?」  だが、まだ離婚の協議どころか、何の話し合いもしていない。リョウイチの不義が分かったとき、大もめにもめて喧嘩をしたが、それも一度きり。その時あの男は出て行って、それっきりなのだ。あのときは確かに、激怒したが、それだけで一足飛びに、「私を殺して排除しようなんて……考えすぎよね」  考えながらミサエは、少し怖くなった。そういえば結婚する前から、「ミサエは焼き餅焼きだなぁ」と2回くらいリョウイチに言われたことがあった。それで、リョウイチは、もし離婚の話を切り出せば話し合いがこじれると予想して、「手っ取り早く殺してしまえ」と思ったかも知れない。ミサエは、そんな不吉な想像を巡らしてゾッとした。「そんな、ドラマみたいなことが、自分の身に起こるわけ無いわ」とも思ってみた。だがなにか、一度頭にそういうことが浮かぶと、容易に消し去ることが出来なかった。  ミサエは自分の部屋の前に来て、リョウイチが部屋にいるということが思い過ごしなのでは無いかという気もした。それを確かめる方法を考えて肝心なことに気づいた。 「そうよ。うちにはセキュリティシステムが入ってるんだわ」  部屋の前でバッグからスマートフォンを取り出し、自分が契約している警備会社のシステムにアクセスした。 「ええと。今日、この部屋に入った者がいるか。今、部屋の中に誰かいるか……と」  部屋の中に入るには、セキュリティシステムを通過しなければならない。したがって、これらのことを警備会社のシステムで照会すれば、一目瞭然と言うことである。 「ううんと……本日の入室者……私以外はナシ。現在の入室者……ナシ……か」  ミサエは、さっきのことが自分の見間違えだったのかと胸をなで下ろした。「もしかすると、隣の部屋を見ていたのかも」。と自分を納得させた。  ミサエは、入室セキュリティの顔認証を受けると鍵がカチッと音を立て、ドアがわずかに手前にプッシュされて開いた。そして中に入った。だがこのとき、ミサエはすぐに異変に気づいた、「匂い」がしたのだ。「これはあの男の匂い」。すぐにそう感じた。だが、セキュリティシステムでは、部屋の中には誰もいない。ということは、さっきまでリョウイチがこの部屋にいたが、自分が帰宅するのと入れ違いに帰って行ったと言うことか?「それにしても、へんねえ」。  ミサエは家中の明かりを一端全て点灯させて、それから中へ入っていった。人の姿は見えなかった。気配もない。 「やっぱり誰もいないのね。思い過ごし」  それは、ミサエから「もしかしたら、殺されるかも」と考えていた恐怖を取り除いた。だが、わずかに、「夫は帰って来ない。来ただろうけれど、顔も見ないで帰ったの」。そんな一抹の寂しさもあった。  ミサエは、夫がさっきいたのかも知れないリビングに入った。やはり誰もいなかったし、誰かがいた形跡も見て取れなかった。さっき感じたリョウイチの匂いも、もう鼻が慣れたのか感じなかった。  リビングの窓を大きく開け放った。外から帰って来たばかりだが、窓を開け、あらためて外気を感じると冷たかった。  ベランダに出て外を右に左に見やって、別にいつもと変わりの無い風景だと思い、中に入ってガラス戸を閉めた瞬間だった。 「はぁぅあ!」  ミサエは両肩を掴まれて後ろに引き倒され、抵抗する間もなく馬乗りに押さえ込まれた。自分を押さえ込んでいる人間の顔はリョウイチだった。男の顔は尋常では無かった。人間は人を殺そうと決意したとき、こんな顔になるのかと思われた。男は両手にロープを握っていた。ミサエが抵抗を試みようとした瞬間、また思いもしないことが起きた。 「よし、取り押さえろっ!」  ドドド。重い固い足音が響き、大勢が部屋に雪崩れ込んでくるのが気配だけでも分かった。 「く、くそぉ。なんだおまえら!」  背後から左右から腕を取られて、今度はリョウイチが後ろに引き倒された。 「確保しました!」  誰かが報告するような声が聞こえた。そして、リョウイチが暴れてなにか怒鳴り散らし始めた。 「容疑者に鎮静剤を打って黙らせておけ」  リーダーと思われる人間がそう言うと、部下は即座に指示を実行し、リョウイチはあっという間におとなしくなった。 「お客様。お怪我はありませんか?」  そう言われてミサエは相手の顔を見た。紺のスーツをビシッと着ているが、顔も手も鈍く輝くロボットだった。 「我々は、警備会社の特殊介入班の者です。お客様に恐ろしい思いをさせ、申し訳ございません。ですが不法侵入者は排除いたしました。ご安心ください。私は、特殊介入班リーダーのAR―231号です。どうぞよろしくおねがいいたします」  ミサエは、倒れたまま呆気にとられていたが、そのロボット隊員に抱き起こされて、ソファに移された。 「ヨシダ様宅の警備強度は最高のA+に設定されております。そこで、危険を根本から排除するため、遺憾ながらお客様のご質問に対して、『部屋の中に誰もいない』とお答えし、容疑者が犯行に及ぶ寸前に、それを阻止し確保いたしました」 「リョウイチが、容疑者だって、どうして分かったの?この家の持ち主なのに」 「はい。あの方は、正当な理由無く6ヶ月以上帰宅なさっていませんので、自動的に動向監視リストに移動させていただきました。その上で、突然のご訪問は怪しいと推測されましたので、我々、特殊介入班が急行し待ち受けていたしだいです」 「そ、そうなの……」  ミサエの目の前でグッタリしたリョウイチが警備ロボットに両脇を抱えられて引きずって行かれた。そしてそこへ一人の隊員がやって来た。 「お客様。紅茶を一杯お飲みください。落ち着きます」  隊員はそう言って、ミサエの部屋のキッチンで入れた紅茶をテーブルに置いた。 「ありがとう」  ミサエは少し放心していたが、紅茶を見て落ち着いたようだった。  AR―231号の説明に寄れば、リョウイチの行為は全て録画されており、これを証拠に殺人未遂で警察に引き渡されるということだった。  ミサエは、これでもうリョウイチとは本当に関係修復不可能になったのだと思った。そして、リョウイチとタドコロ・ケイコの関係も、これで終わりだろうと思った。何もかもが終わりになった。  紅茶を飲んだミサエはAR―231号に目を向けた。 「ねえ。あなたは隊長さんなの?」 「はい、そうです」 「隊長さん。わたし、怖いから、今夜ここで一緒にいてくれない?」  ミサエは、隊長ロボットのスーツの袖を引き、懇願するように言った。 「ご要望であれば」  ミサエの前に片膝立ちでいた隊長ロボットは、そう言うと警備本部に任務完了の報告を始めた。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加