大衆演劇というもの

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「おはよう。昨日はよく眠れたかい?」  ただ顔を合わせただけなのに、頬にカッと熱が集まる感じがしてぼさぼさの頭で脱衣所から去る。あいつの顔まともに見れなかった。自分でもおかしいとわかっている。客人に挨拶もせず出て行った自分がひどく幼く見えて自己嫌悪に陥る。元はといえばあいつの変な行動のせいだ。俺は悪くない。そう自分に言い聞かせて朝食の準備に取り掛かる。地元の漁港でとれた鮭の塩焼きとアサリの味噌汁。自家製の沢庵と卵焼きを皿に盛り付けて食堂に配膳する。最後に緑茶を淹れてすぐに飲んでもらえるようにお盆の隣に置いておく。ちらほらと宿泊客の姿が見えてくる。祝日を挟んだ土曜日ということで客足も多い。クーラーを効かせた厨房では料理人の田代さんがこめかみに汗を流しながら腕を振るっている。今日の宿泊客三十人分の食事を作るのは全て田代さんの仕事で、料理人として歴の長い彼はあっというまに大鍋を使って食事を作ってしまう。普段は無口で大人しい人だが、調理をする時には厳しく配膳係に指示を出してくれる。旅館のスタッフの中でも一番頼れるお兄さんだった。  今日は昼公演、夜公演と新作のお芝居が幕を開けるとあって、十二時ごろには玄関にぞろぞろと地元のお客さんや追っかけのお客さんがやってきて軽い混乱状態に陥っていた。保はそれを誘導する役割を買って出て、お客さんをロビーにあげて宴会場へ二列に並ばせて連れて行く。チケットをもぎり、あっというまに8割がた席が埋まってしまう。予備のパイプ椅子を増やして急遽後方の席を追加するも、やってくる人が後をたたない。
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