大衆演劇というもの

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「乙一。昨晩はすまなかった」 「いや、お互い様だ」  重吾は居心地悪そうに胸のあたりを掻きむしる。乙一はそっぽを向いていた。  その後、何度か逢瀬を重ねるうちに重吾と乙一は互いの心を通わせていく。しかし、ある不幸が突然二人の身に降りかかった。  都で猛威を奮っている伝染病にかかり、乙一が危篤状態となってしまったのだ。病床で弱々しく天井ばかりを見つめる乙一を重吾は放っておくことができない。 「乙一。何か食いたいものはあるか?」 「ない……胸がつかえて腹がすかないんだ」  ぽつぽつと話し始める乙一の額に重吾はそっと手をやる。目を瞬かせて乙一が重吾を見上げた。  客席はしん、と静まりかえっている。物語の行く末を見守るように舞台に視線が注がれる。 「乙一。大丈夫さ。おまえはきっと良くなる。だから今は休め」 「重吾にはわからないさ。体が動かないのがわかるんだよ。俺はもう終わりさ」  弱音を吐く乙一を重吾はなだめる。翌日、また見舞いにやってきた重吾は小町通りで買ってきた桜餅を買ってきた。乙一は紅谷庵の桜餅が大好きだったという。 「一口食ってみろ。美味いぞ」 「いらないっ。俺に構うな」  力の入っていない手で、ぱんと重吾の差し出してきた桜餅をはたき落とす。ころん、と桜餅が転がっていく。 「同情はよしてくれ。お前の顔を見るだけで辛くなる」 「乙一……」  そこで前編の幕が下りた。十分ほどの休憩時間の後に後編が始まる。ぞろぞろと客席が波打つように人が動き出す。前編のシーンを振り返る、あそこが良かった、あれは良いと客同士の会話を盗み聞いていると、楽屋に戻ってきた峰山に「水」と声をかけられる。急いで手渡し、ついでに近くに置いてあった峰山の手拭いも渡した。
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