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「あの..もう帰りますね。家、実はこの辺りだし、遅くなっちゃうとちょっと..」
嘘をついた。
あなたに会うためにバスと電車を乗り継いで来て、まだ泊まる場所も予約してない、なんて本当のことを言うと、重いんだか軽いんだかわからない女になってしまいそうだから。それに、送られてきた娘の動画を見てしまい、なんだか後ろめたくなったから。
いや、本当は。
こんなときに限って夫が義母を家に招いたのではないかという疑惑と、その義母の顔が、甚だ何かを伝えたそうに感じて、急に熱が引いてしまったからだ。
ただ、何も考えず勢いでここまで来てしまった自分は、引くほど軽率だ。
どうか引き留めないで。
「そうでしたか。なら送りますね。」
「いいのいいの!ここで大丈夫です。夫が迎えに来てくれるみたいだから。」
結婚している旨はチャットでやり取りしているときに話していたが、今初めて『家族』のことを話に出した。
「旦那さんが迎えに来てくれるんなら安心しました。それなら、ここで。僕、実はまだ学校でやらなきゃいけないことがあって、今から研究室に行こうかなって。今日、すごい楽しかったです。」
健全過ぎる、と思った。
チャットで会話しているときから真面目な雰囲気は感じ取っていたが、実際の待ち合わせ場所に着いたとき、いかにもチャラチャラした今時風の若者がいたらどうしよう、と不安になっていた。
なのに、名残惜しいくらい彼は健全だった。
一体、私は何を期待していたんだろう。
じゃ、と言ってお互い反対方向を向いたあと、振り返ったのは同時だった、と思う。
目が合った瞬間、互いに驚いた顔をし、「また会ってくれませんか。」とハモってしまった。
吹き出すタイミングまで。
何これ、映画のワンシーンか何かですか。
彼の八重歯がニッと顔を出す。綺麗に口角を上げて笑う人だなぁというのが第一印象だった。それから、綺麗な肌、綺麗な横顔、綺麗な手。何もかもが綺麗だな、と思った。夫と比べていたんだと思う。
綺麗な彼を目の当たりにすると、自分が自分であることがとても恥ずかしくなった。もっと、ちゃんと化粧してくれば良かった。次はないかもしれない、なんて半ば諦めたりもした。
「あの、」
しばらくの沈黙の後、破ったのは彼の方だった。
「綾子さん」
真顔に戻った彼が私の名前を呼ぶ。
「好きだと言ったら、迷惑ですよね。」
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