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エレベーターに乗り込み下降を始めると、無機質に立ち並ぶビル群が次第に視界から遠ざかり、緑の植え込みが見え始める。
と、そこに見覚えのある鮮やかなピンク色に覆われたキッチンカーが学の瞳を捉える。不機嫌そうにこちらを見ていたのは、幸子さんだった。エントランスを抜けると
「どうしてここに」
「急にいなくなったら、店番する人がいなくなるじゃないの」
「でも、幸子さんが」
あの紙を、と言いかけてやめる。
ふと足元に立て掛けてあるメニュー板に視線をやると、移動販売で来ていたのはスープじゃない。
今日の予報は夕刻から雪だ。こんな寒い日にまさか、フローズンヨーグルトなんて。お客さんは来ないだろう。昼時に財布とスマホだけを手に出ていく会社員の人たちがちらちらと不思議そうに学と幸子さんの様子を見ている。
「なんでスープを売りに来ないんですか」
幸子さんは妙に子供っぽい赤いエプロンをつけたままズカズカと歩み寄ってきたかと思うと直前になって目をそらす。
「なんでって。食べたいんでしょう、フローズンヨーグルト。冬なのに。こんな寒いのに。それでも」
「……機嫌を損ねてしまったのかと」
「損ねたわよ」
「……」
「小宮山君といると、思ってしまうんだもの。誰かと生活することはものすごく面倒で……」
「……?」
「それでいて、それ以上に愛おしいことなんだって」
とぎれとぎれにそこまで言うと、幸子さんはくるっと背を向けて、凍らせたヨーグルトの上に真っ赤で大粒のいちごとブルーベリーをのせていき、押し付けるように学に渡す。
「あなたがいなかったら本当に笑わない女になるから。口が引きつって、こんなんになるから。それは困るでしょ。客商売だから、時折笑わなきゃ、忘れちゃう。だから……」
「幸子さん、帰りましょう」
学は優しく微笑みかけてから続ける。
「……幸子さん、知ってますか。バッドエンドでも、続編でハッピーエンドになる物語もあるんですよ」
一瞬、何かを頬に含むように柔らかく微笑んだかと思うと、幸子さんはすぐに「ふーん」とちょっと面白くなさそうにそっぽを向く。
それが幸子さんらしくて、学はなんだか嬉しくなる。
いろんなものに躓いて、未熟で、普通に生きることは思った以上に苦しい。けれども、酸っぱく思える生活も小さなきっかけで時折甘く、彩り豊かにさえなる。
味方なんて誰もいないと思ってしまうような暗い世界の端っこで迷ったとしても、誰か一人が待っていてくれればいい。
予報より早く、はらはらと舞い落ちる白い雪が幸子さんの前髪についたかと思えばすぐに溶ける。
学がそっと指先で触れると、幸子さんは、優しく笑った。
《了》
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