フローズンフローズン

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 翌朝、いつものように一階へ降りていくと店前にあの紙がかかっている。 「うちに小宮山学がいます」  達筆な幸子さんの懐かしい文字が恨めしく思える。 「どうして」  幸子さんは普段と変わらず淡々と仕込みを続ける。こちらに背を向けたまま、 「言ったでしょう。とっくにバッドエンドで完結してるのよ」  幸子さんの小さな背中と細っこい首に巻かれたライトブルーのストールの柄が頭から離れない。バス停へ向かう道すがら、空を見上げてはそれと同じ模様を探してみたが、澄みきった真冬の空には模様どころか、雲ひとつだってなかった。ひんやりとした空気が頬をつうっとなでる。  うちに小宮山学がいます――。  幸子さんを不機嫌にするようなことを何か言ってしまったのだろうか。あの紙はそのときに店前に出すという約束だった。  婚約はしないし、カメラマンの仕事を続けたい。そのことを伝えに今日は父の会社まで足を運んでいた。  重厚な扉を開けると、ソファの向こう側に腰を下ろす父の姿が目に入る。目元を見るにつけ、ここ数日間だけで少し老けたのではないかと思うくらいで一瞬気後れする。殴られでもするかと覚悟していたが、父は静かに学の言葉を最後まで聞き、婚約について残念がっていたのは父ではなく、案外母の方なのだと告げた。  決めるのは、すっごくエネルギーが必要で大変な作業だけど、決めたことの責任のことも全部ひっくるめて、決めた。撮りたいものがあるんだ――。  そう話す学に、父は諦めたような、呆れたような表情で目を細めてから首を横に振る。  本当は記録になんて残さなくても、記憶にしっかり残ってる。でも、あの笑顔を見たらシャッターを切らずにはいられない。 「もう行け」  言葉そのものはひどく素っ気なく、突き放したようにも取れるのに父はなぜだかちょっとだけはにかんでいた。思えば、学が父とこうして向き合って自分の思うことを口にしたのは初めてのことだった。
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