06.憎悪

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06.憎悪

ドン、と鈍い痛みが走った。 「痛っつ……」 頬が冷たい。三谷は顔を押さえて身を起こした。 駅で見た黄昏はどこにも見当たらなかった。 ただ薄暗い部屋のなか。 ──気づけば、事務所のソファーと机の間にいた。 事務所の停滞した空気を肺いっぱいに吸い込み、三谷はソファーにどかりと座り直して項垂れた。両手で顔を覆い、目を瞑る。 「ひどい寝相ですね」 目の前のソファーに腰掛けていた冷嶋が言った。 彼がいることには気づいていたが、言葉をかけられるまで無視していた。その言葉も存外冷たかったが、 「ほっとけ」それだけ言うと、三谷は頭を振って大仰にため息をついた。 何なんだ、一体。 目紛(めまぐる)しく場所が飛ぶ。天地が嘲笑うかのように引っくり返ったその余波が、いまだにグルグルと頭を片隅を引っ掻き回していた。 「──かつて殺したいと思うほど、誰かを憎んだことはありますか?」 ふいにそう言って、目の前にソファーに腰掛けた冷嶋は、優雅に珈琲をすすった。その所作と今しがた発せられた言葉から受ける印象が、まるで一致していない。 「また何を言い出すんだ」 三谷は眉をひそめた。 確かに、責任のある仕事をしている以上、ムシャクシャすることも多々あった。それでも、誰かを殺したいほど憎んだことなど──。 「あるわけないだろ。そんなこと」 そう、それだけは断言できる。 「では、逆はどうでしょう?」と、続けて冷嶋が訊いてきた。 「……逆、とは?」 三谷の手の下で、ソファーが軋んだ音を立てた。 「意味は、分かっているのでしょう? それとも、ちゃんと言ったほうがいいですか?」 冷嶋は目を細めた。 「──殺したいと思わせるくらい、誰かに憎まれたことはありますか?」 ガンと、三谷は机の脚を蹴っていた。それでも机はビクともしなかった。「そんなの──」 「身に覚えは、ありますか?」 冷嶋は繰り返すように問い掛けてきた。その静かな言の葉に気圧された三谷は、そのまま押し黙る。 「君には何が見えているのか、僕には皆目見当つきませんよ」冷嶋は言葉を続ける。 「そもそも三谷くん、どうして君がそんな目に遭っているのか、その原因を追求してみてはいかがですか?」 「原、因」と三谷は呟いた。 「霊的な悪意もそうですが、一番怖いのは、──一体何なのでしょうね?」 ふわりと嗅ぎ慣れた香りが三谷の鼻腔をくすぐった。 暗鬱とした気持ちを少しだけ和らげるそれは、三谷の大好きなアイラモルトのウイスキー。 強烈な個性を発揮する薬品のような匂い、それでもって芳醇でスモーキーな香りだった。
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