9人が本棚に入れています
本棚に追加
06.憎悪
ドン、と鈍い痛みが走った。
「痛っつ……」
頬が冷たい。三谷は顔を押さえて身を起こした。
駅で見た黄昏はどこにも見当たらなかった。
ただ薄暗い部屋のなか。
──気づけば、事務所のソファーと机の間にいた。
事務所の停滞した空気を肺いっぱいに吸い込み、三谷はソファーにどかりと座り直して項垂れた。両手で顔を覆い、目を瞑る。
「ひどい寝相ですね」
目の前のソファーに腰掛けていた冷嶋が言った。
彼がいることには気づいていたが、言葉をかけられるまで無視していた。その言葉も存外冷たかったが、
「ほっとけ」それだけ言うと、三谷は頭を振って大仰にため息をついた。
何なんだ、一体。
目紛しく場所が飛ぶ。天地が嘲笑うかのように引っくり返ったその余波が、いまだにグルグルと頭を片隅を引っ掻き回していた。
「──かつて殺したいと思うほど、誰かを憎んだことはありますか?」
ふいにそう言って、目の前にソファーに腰掛けた冷嶋は、優雅に珈琲をすすった。その所作と今しがた発せられた言葉から受ける印象が、まるで一致していない。
「また何を言い出すんだ」
三谷は眉をひそめた。
確かに、責任のある仕事をしている以上、ムシャクシャすることも多々あった。それでも、誰かを殺したいほど憎んだことなど──。
「あるわけないだろ。そんなこと」
そう、それだけは断言できる。
「では、逆はどうでしょう?」と、続けて冷嶋が訊いてきた。
「……逆、とは?」
三谷の手の下で、ソファーが軋んだ音を立てた。
「意味は、分かっているのでしょう? それとも、ちゃんと言ったほうがいいですか?」
冷嶋は目を細めた。
「──殺したいと思わせるくらい、誰かに憎まれたことはありますか?」
ガンと、三谷は机の脚を蹴っていた。それでも机はビクともしなかった。「そんなの──」
「身に覚えは、ありますか?」
冷嶋は繰り返すように問い掛けてきた。その静かな言の葉に気圧された三谷は、そのまま押し黙る。
「君には何が見えているのか、僕には皆目見当つきませんよ」冷嶋は言葉を続ける。
「そもそも三谷くん、どうして君がそんな目に遭っているのか、その原因を追求してみてはいかがですか?」
「原、因」と三谷は呟いた。
「霊的な悪意もそうですが、一番怖いのは、──一体何なのでしょうね?」
ふわりと嗅ぎ慣れた香りが三谷の鼻腔をくすぐった。
暗鬱とした気持ちを少しだけ和らげるそれは、三谷の大好きなアイラモルトのウイスキー。
強烈な個性を発揮する薬品のような匂い、それでもって芳醇でスモーキーな香りだった。
最初のコメントを投稿しよう!