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07.追憶のウイスキー
暖かい電気色が十畳ほどのダイニングルームを優しく照らしている。
三谷はあたりを見回した。
今までとは少し異なる複雑な感情を抱いた。
ここが2LDKのマンションの一室だということを、三谷は知っていた。
何故なら、ここは馴染みのある自宅だから。
「……今度は一体何なんだ」
すでに声には抑揚がなかった。
目の前には食事をするダイニングテーブルが控えている。無垢材のテーブルの上には何も乗っておらず、ただただ寂しげな印象を三谷の心に植え付けた。振り返れば、そこにはちょっとしたリビングスペースがある。この部屋には誰もいない。今までのように誰かがいる気配もない。
テーブルのそばに棚が据え置かれている。三谷が厳選して選んだオーク調の棚には、琥珀色をした液体の入った瓶がいくつも並べられていた。三谷はおもむろにその中の一つの酒瓶を引き抜いた。
アードベック10年。三谷の一番のお気に入り。
燻したような強烈な香りで、口に含めば、ガツンとくるスモーキーさとピート香が鼻に抜ける。癖が強くお世辞にも初心者向けでないそれは、だが一度その魅力に気づいてしまうと、なかなか手放せなくなる逸品だ。
ゴクリと喉が鳴った。そういえば最後にウイスキーを嗜んだのはいつだっただろう。そんな悠長にしている場合ではないと心のどこかで分かってはいるのだが、急速に湧き上がった欲求には抗えなかった。
三谷はおもむろにテーブルの上にモスグリーン色の酒瓶を置くと、カウンターキッチンの奥に向かった。
やや薄暗い細身のキッチンの奥には、冷蔵庫と食器棚がある。
三谷は食器棚をそっと開くと、定位置から底の丸いロックグラスを取り出そうとした。
その手がピタリと止まった。──グラスが、足りない。
本来グラスが置いてあるはずの位置に、不自然なスペースが空いていた。少なくとも二つ以上、ない気がする。
まぁ、同じグラスはあるからいいか。三谷は深く考えることをやめて、少し奥からグラスを取り出した。
これで冷凍庫に丸氷があれば完璧なのだが。
三谷の口の端がわずかに上がった。
──すぐ背後で、何か硬いものが床に落ちる音がした。
粉々に割れる響音に三谷はビクリと肩を震わせ、すぐさま振り返った。
見下ろした視線の先、足元で何かが砕けて散らばっていた。
ダイニングからの明かりを受け、きらりと光ったそれは、薬の瓶の破片だった。破片とともに中身の錠剤がキッチンの床に散乱していた。
それほど量は多くない。それに関して三谷は特に疑問を持っていなかった。
フッと一瞬だけあたりが暗くなった。ダイニングの丸い電気が消えたのかと思い、顔をあげた時にはもう明るさは元に戻っていた。
なんだ? と、三谷はカウンターキッチン越しにダイニングを見やった。
──様子が変わっていた。三谷はグラスを持ったまま、足早にダイニングのテーブルの前に戻った。
改めて確認して、腹の底が冷えた。
テーブルの上には、三谷の持つグラスと同じものがコンと置かれていた。その数、三つ。
そのグラスは、いずれも琥珀色の液体をたたえている。おそらくウイスキーだろう。氷もだいぶ小さくなっていて、不気味なことに飲んだ形跡まであった。
パリンとまた、何かが割れる音が響いた。今度はその音が遠い。この部屋ではなさそうだった。
三谷はテーブルから視線を逸らし、もう少し奥の引き戸を見やった。多分、今の音は向こうの部屋から聞こえてきた、そんな気がする。
さっきの薬の瓶といい、ここではポルターガイストでも起こっているのか。
次々と起こる奇怪な現象にどうも恐怖の感度が鈍くなっているようで、気付けば、三谷の足は奥の戸の前に向かっていた。
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