07.追憶のウイスキー

2/2
前へ
/25ページ
次へ
壁紙の色と同じ単調な白色の引き戸、その取手に指を掛け、おもむろに力を入れてみる。──開かない。もう少し力を入れてみても、何かが引っかかっているような感じがして、引き戸が開きそうな気配はなかった。 立て付けが悪いのか? ……いや、そんな記憶はない。 この戸の先には三谷の寝室がある。毎日使うような部屋だからこそ、そこは断言できる。 もう片方の手も添えて、両手でガンと戸を思いきり引こうとした。 ゲホッと三谷はいきなり咳き込んだ。 引き戸は開かない。三谷はバッと取手から手を離して、そのまま鼻口を覆った。 不意に鼻についた焦げ臭い匂い。肺に澱んだ空気が流れ込んでくる。 ゴォオと不吉な音がした。 赤く煌々とした色合いが、あたりの白い壁を舐め始めていた。 三谷は嫌な予感と共に振り返った。 火、いや炎。肌を焼くような熱。 いつの間にか、部屋全体が燃えていた。 馴染みある日常風景が、赤く、そして黒く染まっていく。止め処なく焼けていく──。 声は出なかった。 何の冗談かと思った。 熱いはずなのに、手の指の先が震えている。 ひたりと、肩に何かが触れた。その感触に想起された記憶から、一気に怖気が走る。 三谷は反射的に、肩の手を振り払うようにバッと振り返った。 炎の色合いよりも赤い不吉な影がそこに立っていた。 それの赤くて長い髪が、熱気に晒されてふわりと舞い上がる。 今までの赤い影とは違う。その相貌が、三谷には認識できるようになっていた。 焼け爛れた女性の顔。“それ“に、じっと見つめられている気がした。 “それ“の背後、奥の引き戸はいつの間にか開け放たれていた。 その奥に広がるのは真っ黒な暗い口。三谷の寝室であるはずのそこには、何も、見えない。 目の前の悍しい姿の女性が口を開いた。 「ぁ、な──」 言葉にもなっていない不明瞭な声、──それがすぐ耳元で囁かれた。 尾を引くようにねっとりとした声が、三谷の耳にこびりつく。 赤い影に飲み込まれるように、抱きつかれそうになり──。 ようやく彼は状況を理解し、喉から悲鳴が漏れた。 背後のテーブルの上にあったアードベックの瓶が、そして三谷の手の中にあったロックグラスが、同時に床に落ちて、ひどく耳障りな音が響き渡った。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加