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08.まじない
──俺は、多分あの女性を知っている。
肌を伝った汗を拭い、三谷はそう感じた。
そんな曖昧なことさえ、思案できるようになるまでには随分時間がかかった。
気づけばまた、事務所に戻ってきていた。
運よく逃れることができているのか、恐怖がある一定を超えた際に戻されるのか、トリガーはよく分かっていない。それでも少し時間が経ったこともあり、三谷の心は少しだけ落ち着きを取り戻しつつあった。
どうして自宅が燃えるような幻想を見たのだろう。グラスが三つあったのは、一体何の暗示だ?
疑問ばかり浮かんでは消える。まだ思考が全然まとまらない。
近くで炎に当てられた夢、もしくは幻覚を見たからだろうか。ひどく喉が乾いていた。
三谷はおもむろに事務所のソファーから立ち上がった。視線の先には炊事場がある。カルキ臭い水道水でもいい。とにかく水が飲みたいと思った。
事務所を見回したが、何故か冷嶋の姿はなかった。彼がいたら断ろうと思ったのだが、居ないのなら仕方がない。減るものでもないし、特段問題はないだろう。
そう思い、三谷は流し台に向かった。都合よくコップもあった。
だが、幾ら蛇口を捻っても肝心の水が出ない。
この事務所は水も止められているのか? 何をやっているのだ、冷嶋は。
顔をしかめてコンと流し場にコップを置くと、そのかたわらにどこか見覚えのある瓶が置いてあった。
──何か、錠剤入りの小瓶だった。これは、三谷がよく知っている──。
キシリと背後で音がした。恐る恐る振り返れば、腕を組んだ冷嶋が悠然とソファーに腰掛けていた。
「……冷嶋、お前いつの間に?」
三谷は驚いていない体を装って冷嶋に言葉を投げた。
物音がほとんどしなかった。もしかしたら驚くことを分かっていて、わざとやっているのかもしれない。
三谷は口の端を歪めた。どうにも遊ばれているようで不愉快だ。
「──この事務所にはね、呪いがかかっているんですよ」
会話が噛み合っていない。
だが、三谷の直前の疑念を吹き飛ばすくらいにはインパクトのある発言だった。
「呪い?」
「そう。記憶の補完作用と言ったら分かりやすいかもしれません。知りたいと願うことを、様々な形で追体験させるんです」
知りたいと願うこと、だって? 三谷は冷嶋の言葉を反芻した。
「……まさか、この一連の現象は、俺が求めていることだとでも言うのか?」
そんな馬鹿なと鼻で笑った。こんな不可解な現象など、お呼びでない。
「三谷くんが何を見ているのは、知りませんけどね」
冷嶋がうすら笑いを浮かべて肩をすくめた。
「きっと心が求めているんじゃないですか?」
そんなまるで似合わない、メルヘンチックなことを冷嶋は言った。
「記憶がなくても、君のなかに燻る何らかの焦燥感が、形になって目の前に姿を現しているんです」
「……記憶の補完だと言ったな。つまり、俺が見てきたものは、すべて俺が忘れているだけの既成事実、そういうわけなのか?」
「そうだと言って、君は信じますか?」
「信じるわけないだろ。現実味がなさすぎる」
「そうですね」と冷嶋は気のない返事をした。
「どこまでが真実で、どこまでが君の記憶が誇張した悪夢なのか。それは君自身が判断すべきことですよ」
「──お前は、一体何なんだ?」
不可解な事象を前に、まるで淡々としている。知り合いであるはずの彼が、急に得体の知れない何かであるような錯覚に陥ってしまう。
「わざわざ答える必要がありますか? それは君がよく知っているでしょう。ああ、あと因みに言っておくと、これはただの暇つぶしです」
暇つぶし、という冷嶋の言葉にひどく軽薄なものを感じた。
「僕はこの場所でただ問い掛けるだけですよ。記憶を触発するトリガーをね。それにしても三谷くん」
「何だ?」
ついた言葉は随分低いトーンになっていた。
「ずいぶんと駆け足ですが、大丈夫ですか?」
「駆け足にもなるだろうよ」と三谷は言い放った。
「多分俺は、何かとても大事なことを忘れている。そんな気がするんだよ」
それに気がかりなのは、写真の存在だ。あれが一種のタイムリミットを担っているような気がする。あと残っているのは、三谷と冷嶋の二人だけになっていた。自分たちが侵食されてしまっては、どうなるか分からない。
「ところで、写真はどうなっているんですか?」
三谷の心を読んだ訳ではないだろうが、冷嶋にそう問われた。三谷は急ぎテーブルの上にある写真を覗き見た。
無情にも赤い影の侵食が進行していた。
三谷は写真から目をあげ、目の前にいる冷嶋の顔を見つめた。
──写真の中の冷嶋は真っ赤に染まり、あと残っているのは三谷だけとなっていた。
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