09.夜に浮かぶ二つの月

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09.夜に浮かぶ二つの月

消毒液の匂いがあたりに立ち込めている。 そこそこ広い空間でチカチカと天井の蛍光灯が点滅していた。 どこか大きな病院の薄暗い待合室だった。奥には総合受付の看板がぼんやりと浮かび上がっている。 この場所、三谷の記憶に引っかかるものはなかった。身に覚えのない場所だった。 シンと静まり返った誰もいない病院。じわじわと這い上がるような怖気を感じるには申し分ないシチュエーション。 どうしてこんなところにいるのだろう。 そもそもここは一体どこだ? 三谷は病院の玄関に向かった。 案の定、そこにはとある総合病院名とフロアマップが描かれていた。 七階建ての、そこそこ規模の大きな病院だった。 三階までに様々な診療科や検査室が入っており、四階以上には入院患者の病室となっているように見える。 病院名を目の当たりにして、ようやく三谷の記憶の端に浮かび上がってきた。たしか自宅からそう遠くないところに位置していたと、そんな記憶だけがあった。 ──知りたいと願うことを、様々な形で追体験させるんです。 ふいに先ほどの冷嶋の言葉が蘇った。 俺は一体、何を知りたいと思っているんだ。その答えが分からないから、ずっと何かが腹の底で蠢いているような気持ち悪さが燻っている。その何かを追い求めた先、そこに待ち構えているのは、一体何なのか。 移り変わる場面、その先々で姿を現す赤い女性の影。おそらく今回も最後に目の前に現れるのだろうが──。 何かを知ることで、その異形から逃れられる。そんなかすかな希望を抱いている自分がいる。いつまでここにいても仕方がない。 知りたいと思っているのが本当に三谷自身なら、心の赴くままに、行動すればいいのだろうか。 三谷は顔をあげた。 ──上階に行こう。何の確信もないが、そう思った。 エレベーターはどうも動いていないらしい。やむを得ないと、三谷は階段を上ることにした。 どこまでも病院特有の匂いがする。アルコール臭い匂いがずっと鼻腔にとどまっている。そのツンとした匂いに、別の何かが混じっているような気もするが、嫌な匂いではなかった。 そこそこ階段を上ると、三谷はふぅと息をつき一旦足を止めた。 フロアの壁に四階の文字が浮かんでいた。 確かこの階から病室が入っているはずだと、そんなことを思った時には、足は四階の廊下に向かっていた。 そのまま薄暗い廊下を突き進む。 かろうじて視界の明るさを確保しているのは、天井にまっすぐ伸びる蛍光灯。だがそれも所々切れているようで、廊下の先には時折、暗がりが滲んでいる。 ある種の予感はあったのだろう。 ふとある病室の前で三谷は足を止めた。 その病室の扉には、入院患者の名字のプレートがはめられている。 ──その一つに、三谷の名字が書かれていた。 同性の他人、という可能性もある。だがその可能性に甘んじるほど、三谷は楽観視していなかった。 心が逸る。三谷は銀色の取手を握ろうとした。 「っ!」 突然、キンと耳の奥で金属音が聞こえ、伸ばした手を引っ込めた。途端に、激しい頭痛と目眩がした。三谷は堪らずよろよろ後ずさり、廊下の壁に背中を預けた。そのままずるずると背中が滑り、気づけば廊下にへたり込んでいた。じわりとお尻に水分が染み渡った。 三谷が床に手をつくと、ピシャリと何かが跳ねた。 何だ、床に広がっているこの液体は。 頭を押さえると、病院の匂いがより強くなった。ツンとしたアルコール臭、……いや、それだけではない。 これは、ヨード香。三谷もよく知る──。 「──大丈夫ですか?」 顔をあげた先には、冷嶋がいた。薄暗い廊下の真ん中で三谷を見下ろしている。冷嶋を事務所以外で見るのは初めてだった。 「あぁくそ。頭が痛くて敵わん」 鈍痛を吐き出すように声を絞り出し、三谷は壁を支えにして何とか立ち上がった。 「冷嶋、お前も来ていたのか」 「みたいですね」と彼はあたりを見回していた。 その表情に惧れは見えない。緊張している様子もない。どうしてそこまで冷静でいられるのか、三谷にはよく分からなかった。 そうか、と三谷は思った。 冷嶋はあの赤い影をまとった女性や禍々しい炎を実際に目の当たりにしていない。だからこんなに落ち着いていられるのだ。 「冷嶋、気を付けろよ」 今回、写真で赤い影に飲み込まれたのは冷嶋だった。こんなに薄暗くて狭い空間だ。何が起こるか分かったものじゃない。 「次に襲われるのは、お前かもしれんからな」 ふむ、と冷嶋はいつものように顎をさすって唸った。 「なるほど、ご忠告どうも」 そんなこと微塵も感じさせない口調で冷嶋は言った。 「……相変わらず呑気だな。少しは危機感ぐらい持て」 これでは焼け石に水ではないか。少しくらい人の忠告を素直に聞き入れたらどうだろう。 「ところで、ここに来て何か思い出しましたか?」 案の定、冷嶋は別のことを気にしているようだった。この状況下で尚、三谷の記憶について触れてくる。 「いや、特にまだ。そもそもここには覚えがないからな」 「ではそんな三谷くんに一つ、とっておきの追加情報を差し上げましょう」 「なんだ、何かわかったことでもあるのか?」 ええ、と頷いて冷嶋はゆるりとポケットに手を突っ込んだ。 「勿体ぶってないで教えろよ」 三谷の語尾が荒くなった。 「お前、この状況分かっているのか?」 「状況を分かっていないのは、君の方ですよ」 わずかに顎をしゃくり、冷嶋はそう返してきた。 「状況を分かっていない? 俺が?」 お前にだけは言われたくないと、そんな妙な反抗心が胸にチラつく。 「いつまでもこんな幻想に鬱々燻っていてどうするんですか」 冷嶋はわずかに目を細めて続けた。 「──君の部屋に火が放たれた。あれは紛れもない事実なんですよ?」 三谷の脳裏に、焼けゆく自宅の様子が馳せた。 「どうしてそんなことを」 知っているんだと、そんな声が喉の奥に消えた。 冷嶋の手には、いつの間にかライターが握られていた。
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