09.夜に浮かぶ二つの月

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「物さえ揃っていれば、放火なんて案外簡単にできるものなんですよ。あとは、実行に移せるだけの強い動機、感情があれば、ね」 そんなそら恐ろしいことを淡々と続ける。 冷嶋はふと足元に視線を落とした。 「偶然にも、ここにはいい条件が揃っていますね」 ピシャリと冷嶋の足元で液体が跳ねた。 「アルコールは存外、何だって燃えるものですよ。病院のアルコール然り、それにお酒、中でも度数の高い蒸留酒──ウイスキーとかですね」 カチリと音がした。仄暗い空間に小さな灯りが点る。 ライターの先に、ユラユラと揺れる小さな炎。 「君の自宅にあったのは、まさにお誂え向きでした」 三谷は反射的に冷嶋から距離を取った。 まさか、と三谷はゆるゆると下がりながら問う。 「まさか、俺の家に火を放ったのは、──お前なのか、冷嶋!?」 「それくらい、君は憎まれているんです」 冷嶋の声のトーンが落ちた。彼は否定しなかった。 床に広がった液体──色々入り混じったアルコールが、三谷の足首を濡らす。 「こ、こんなところに火を放ったら、お前も巻き込まれるぞ! 分かっているのか!」 「構いませんよ」 無表情にそう言って、冷嶋はわずかに首を傾げた。 「本来、君はここにいるべきではありません」 ちらりと冷嶋の視線が、先ほど開こうとした病室の方に向けられた気がした。 「後戻りはできませんよ。さっさと逝ってください」 そう言って、冷嶋は手に持ったライターを躊躇なく放り投げた。 手放してもなお、火は消えない。クルクルと弧を描いて二人の間にライターが落ちていく。 三谷の腕が伸びた。止める暇もなかった。 火が触れた床の液体から、サァと波のように半透明の炎が広がる。かと思うと、通常では到底あり得ない勢いで、灼熱の炎が立ち上がる。 悠長に見ている余裕などなかった。 「くそ!」 三谷は踵を返した。 振り返ったその先、冷嶋の姿はすでに消えていた。 なりふり構わず廊下を走る。床に溜まったアルコールを派手に踏みしめて、ただひたすら駆け抜ける。熱い。 背中を炎が舐めるような嫌な想像が付き纏う。 階段まで辿り着いた。 とにかく、この病院から出なくては。 三谷は飛ぶように階段を駆け降りようとし──。 その矢先、「うわっ!」と声が漏れて、サッと血の気が引いた。 踏み出そうとした一歩先の階段が何の前触れもなく崩落した。大穴の縁、そのすぐ先には竦むような高さを覗かせている。ダメだ、ここからは下りられない。 三谷はすぐ横の階段を見上げた。 さらに上階に逃げるしかないのか。 ぶわりと、背後から焼き尽くさんばかりの熱気が吹きつけてきた。 迷っている暇はないと、三谷は階段を上り始めた。 今度は足は重くなかった。息は上がるが、これなら頑張れば逃げられるかもしれない。 三谷は七階まで駆け上がった。バンと体当たりするように屋上の扉を開け放つと、そのまま転がるように床に身を投げる。 三谷は大の字になって、荒い息を繰り返した。 冷たい風が頬をさらりと撫でた。 わずかに頭を持ち上げて様子を窺う。屋上に向かって開かれた扉の向こうは、炎の照り返しすら見えなかった。 ただ暗闇をたたえていた。 いつの間に振り切っていたのだろう。 まだ呼吸は荒いうえ横腹も痛いが、いつまでもここで悠長にしているわけにもいかない。 三谷は身を起こし、ユラリと立ち上がった。
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