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「物さえ揃っていれば、放火なんて案外簡単にできるものなんですよ。あとは、実行に移せるだけの強い動機、感情があれば、ね」
そんなそら恐ろしいことを淡々と続ける。
冷嶋はふと足元に視線を落とした。
「偶然にも、ここにはいい条件が揃っていますね」
ピシャリと冷嶋の足元で液体が跳ねた。
「アルコールは存外、何だって燃えるものですよ。病院のアルコール然り、それにお酒、中でも度数の高い蒸留酒──ウイスキーとかですね」
カチリと音がした。仄暗い空間に小さな灯りが点る。
ライターの先に、ユラユラと揺れる小さな炎。
「君の自宅にあったのは、まさにお誂え向きでした」
三谷は反射的に冷嶋から距離を取った。
まさか、と三谷はゆるゆると下がりながら問う。
「まさか、俺の家に火を放ったのは、──お前なのか、冷嶋!?」
「それくらい、君は憎まれているんです」
冷嶋の声のトーンが落ちた。彼は否定しなかった。
床に広がった液体──色々入り混じったアルコールが、三谷の足首を濡らす。
「こ、こんなところに火を放ったら、お前も巻き込まれるぞ! 分かっているのか!」
「構いませんよ」
無表情にそう言って、冷嶋はわずかに首を傾げた。
「本来、君はここにいるべきではありません」
ちらりと冷嶋の視線が、先ほど開こうとした病室の方に向けられた気がした。
「後戻りはできませんよ。さっさと逝ってください」
そう言って、冷嶋は手に持ったライターを躊躇なく放り投げた。
手放してもなお、火は消えない。クルクルと弧を描いて二人の間にライターが落ちていく。
三谷の腕が伸びた。止める暇もなかった。
火が触れた床の液体から、サァと波のように半透明の炎が広がる。かと思うと、通常では到底あり得ない勢いで、灼熱の炎が立ち上がる。
悠長に見ている余裕などなかった。
「くそ!」
三谷は踵を返した。
振り返ったその先、冷嶋の姿はすでに消えていた。
なりふり構わず廊下を走る。床に溜まったアルコールを派手に踏みしめて、ただひたすら駆け抜ける。熱い。
背中を炎が舐めるような嫌な想像が付き纏う。
階段まで辿り着いた。
とにかく、この病院から出なくては。
三谷は飛ぶように階段を駆け降りようとし──。
その矢先、「うわっ!」と声が漏れて、サッと血の気が引いた。
踏み出そうとした一歩先の階段が何の前触れもなく崩落した。大穴の縁、そのすぐ先には竦むような高さを覗かせている。ダメだ、ここからは下りられない。
三谷はすぐ横の階段を見上げた。
さらに上階に逃げるしかないのか。
ぶわりと、背後から焼き尽くさんばかりの熱気が吹きつけてきた。
迷っている暇はないと、三谷は階段を上り始めた。
今度は足は重くなかった。息は上がるが、これなら頑張れば逃げられるかもしれない。
三谷は七階まで駆け上がった。バンと体当たりするように屋上の扉を開け放つと、そのまま転がるように床に身を投げる。
三谷は大の字になって、荒い息を繰り返した。
冷たい風が頬をさらりと撫でた。
わずかに頭を持ち上げて様子を窺う。屋上に向かって開かれた扉の向こうは、炎の照り返しすら見えなかった。
ただ暗闇をたたえていた。
いつの間に振り切っていたのだろう。
まだ呼吸は荒いうえ横腹も痛いが、いつまでもここで悠長にしているわけにもいかない。
三谷は身を起こし、ユラリと立ち上がった。
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