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不意にパチパチと音が聞こえた。
火の爆ぜる音ではない。
緩慢に手を叩く音。通常なら、感動や称賛の意を表現するはずのそれは、何故かひどく軽薄な印象を伴って三谷の耳を打った。
「オジさんやるじゃん」
頭上を見上げた。
貯水槽のかたわらに、ちょこんと女性が座っていた。
「お前、無事だったのか」
三谷は黒須を見つめ、少しばかり頬を緩めた。
雑木林の悪夢以来、彼女の姿を見ていなかったから少し心配していた。まさか関係のない黒須まで巻き込んでしまったのではないかと、心のどこかで罪悪感が揺れ動いていた。
「言っている意味が、よく分かんないけど」
強風が吹いた。ふわりと黒髪がなびき、彼女は鬱陶しそうに手で押さえた。
違和感があった。そうか、ツインテールをほどいて、長い髪を下ろしているからか。合点がいった。
それが解消されると同時に、今度は別の疑念が急速に浮かんできた。
終始素っ気ない黒須の言動も相まり、ジワジワと嫌な想像が胸を占め始める。
「どうしてお前は、ここにいるんだ?」
ついた声は思った以上に強張っていた。
「あのねぇオジさん、自分が何でいるかも分かっていないくせに、それを私に聞いてどうするの?」
やはりと言うか、黒須は明確に答えない。反抗的な言の葉で巧みにはぐらかしている、といってもいい。
冷嶋と同じだと思った。
「……黒幕は冷嶋、あいつなんだろ」
もう、変に探っても時間の無駄だ。三谷は自分の想像を直接ぶつけることにした。
「それとも何だ、お前も一枚噛んでいたりするのか?」
三谷は口の端を歪めた。これで彼女はどんな反応を見せるか。
黒須は黙っていた。
否定もせず、ただ静かに三谷を見下ろしていた。今まで散々、生意気な口を聞いて否定していたのに、ここにきてのダンマリである。
三谷は拳を握り締めていた。
「お前たちは、俺をどうしたいんだよ」
「──面白くないね」
やがて黒須はそう冷たく言い放った。
「あれを悪役にするなんて、最低。本当に不愉快」
「は、悪役だって? 一体、何の話をしているんだ」
意味を捉えきれない言葉に三谷はそう噛み付いた。
「悪役もなにも、あいつは放火魔だろうが」
冷嶋はアルコールが撒き散らされた廊下で躊躇なくライターを手放した。
直前の彼の告白も相まり、冷嶋の凶行を目の前で見た三谷としては、そう結論づけざるを得ない。
「それで、オジさんはどうするつもり?」
足を組み、指先を唇に添えて彼女はそう訊く。その姿はどこか艶かしくも映る。
「どうするって……」三谷は言葉に詰まった。
「復讐?」
小首を傾げ、黒須は無遠慮に訊いてくる。
復讐、という言葉にどこか空虚なものを感じる。
いくら冷嶋が火を放ったとは言っても、実際に放火した場に居合わせた訳ではないのだから、実際にはそこまでの感情を持ち合わせていない、というのが正直なところだった。
「……違う」
三谷はそう短く言って、三谷はゆるゆると首を振った。
違うのだが、なんだこの胸につっかえるような気持ち悪い感覚は。表現できない何かが蠢いているような、そんな錯覚に陥る。
「じゃあ、いつまでも逃げ続ける気?」
三谷は押し黙った。意に介せず、黒須は続ける。
「一体何から逃げるの? 炎から? ──それとも、あの赤い影から?」
彼女はそう、はっきりと言及した。
「──お前っ!」
赤い影と彼女は言った。
きっと初めから彼女には見えていたのだろう。
見えていたのに、見えていないフリをしていた。
「違うでしょ?」
クスリと、どこかで聞いた声で黒須は笑った。
「どちらにせよ、もう逃げられないけどね」
ふわりと黒須が飛び降りてきた。重さを感じさせない所作でトンと軽やかに屋上の床に降り立つ。
その勢いのまま、ぐいと三谷に顔を近づけてきた。
三谷の足が思わず下がった。
「そもそも、逃げるっていう概念自体、間違っているんだから」
琥珀色の双眸が、三谷をじっと見据えてくる。
まるで厳かな月のような瞳に映る自分の顔が、酷く醜く映っている気がして、底の知れない畏怖がにわかに湧き上がった。
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