09.夜に浮かぶ二つの月

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不意にパチパチと音が聞こえた。 火の爆ぜる音ではない。 緩慢に手を叩く音。通常なら、感動や称賛の意を表現するはずのそれは、何故かひどく軽薄な印象を伴って三谷の耳を打った。 「オジさんやるじゃん」 頭上を見上げた。 貯水槽のかたわらに、ちょこんと女性が座っていた。 「お前、無事だったのか」 三谷は黒須を見つめ、少しばかり頬を緩めた。 雑木林の悪夢以来、彼女の姿を見ていなかったから少し心配していた。まさか関係のない黒須まで巻き込んでしまったのではないかと、心のどこかで罪悪感が揺れ動いていた。 「言っている意味が、よく分かんないけど」 強風が吹いた。ふわりと黒髪がなびき、彼女は鬱陶しそうに手で押さえた。 違和感があった。そうか、ツインテールをほどいて、長い髪を下ろしているからか。合点がいった。 それが解消されると同時に、今度は別の疑念が急速に浮かんできた。 終始素っ気ない黒須の言動も相まり、ジワジワと嫌な想像が胸を占め始める。 「どうしてお前は、ここにいるんだ?」 ついた声は思った以上に強張っていた。 「あのねぇオジさん、自分が何でいるかも分かっていないくせに、それを私に聞いてどうするの?」 やはりと言うか、黒須は明確に答えない。反抗的な言の葉で巧みにはぐらかしている、といってもいい。 冷嶋と同じだと思った。 「……黒幕は冷嶋、あいつなんだろ」 もう、変に探っても時間の無駄だ。三谷は自分の想像を直接ぶつけることにした。 「それとも何だ、お前も一枚噛んでいたりするのか?」 三谷は口の端を歪めた。これで彼女はどんな反応を見せるか。 黒須は黙っていた。 否定もせず、ただ静かに三谷を見下ろしていた。今まで散々、生意気な口を聞いて否定していたのに、ここにきてのダンマリである。 三谷は拳を握り締めていた。 「お前たちは、俺をどうしたいんだよ」 「──面白くないね」 やがて黒須はそう冷たく言い放った。 「あれを悪役にするなんて、最低。本当に不愉快」 「は、悪役だって? 一体、何の話をしているんだ」 意味を捉えきれない言葉に三谷はそう噛み付いた。 「悪役もなにも、あいつは放火魔だろうが」 冷嶋はアルコールが撒き散らされた廊下で躊躇なくライターを手放した。 直前の彼の告白も相まり、冷嶋の凶行を目の前で見た三谷としては、そう結論づけざるを得ない。 「それで、オジさんはどうするつもり?」 足を組み、指先を唇に添えて彼女はそう訊く。その姿はどこか艶かしくも映る。 「どうするって……」三谷は言葉に詰まった。 「復讐?」 小首を傾げ、黒須は無遠慮に訊いてくる。 復讐、という言葉にどこか空虚なものを感じる。 いくら冷嶋が火を放ったとは言っても、実際に放火した場に居合わせた訳ではないのだから、実際にはそこまでの感情を持ち合わせていない、というのが正直なところだった。 「……違う」 三谷はそう短く言って、三谷はゆるゆると首を振った。 違うのだが、なんだこの胸につっかえるような気持ち悪い感覚は。表現できない何かが蠢いているような、そんな錯覚に陥る。 「じゃあ、いつまでも逃げ続ける気?」 三谷は押し黙った。意に介せず、黒須は続ける。 「一体何から逃げるの? 炎から? ──それとも、あの赤い影から?」 彼女はそう、はっきりと言及した。 「──お前っ!」 赤い影と彼女は言った。 きっと初めから彼女には見えていたのだろう。 見えていたのに、見えていないフリをしていた。 「違うでしょ?」 クスリと、どこかで聞いた声で黒須は笑った。 「どちらにせよ、もう逃げられないけどね」 ふわりと黒須が飛び降りてきた。重さを感じさせない所作でトンと軽やかに屋上の床に降り立つ。 その勢いのまま、ぐいと三谷に顔を近づけてきた。 三谷の足が思わず下がった。 「そもそも、逃げるっていう概念自体、間違っているんだから」 琥珀色の双眸が、三谷をじっと見据えてくる。 まるで厳かな月のような瞳に映る自分の顔が、酷く醜く映っている気がして、底の知れない畏怖がにわかに湧き上がった。
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