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10.失くしもの
目の前に広がるのは、もはや見慣れた事務所だった。
目眩くように変わっていく風景。それらの中にあって、まるで幕間のような避難地であるこの場所。
この事務所にいることに気づいた三谷は、毎回少なからずホッとしていた。──今までは。
奴の──冷嶋の真意を知ってからは、この事務所もガラリと違った意味合いに映る。ここは奴の牙城だ。
「おかえりなさい」
目の前のソファーに座った男は、そう淡々と言って三谷を迎えた。
「……何のつもりだ、冷嶋。こんな茶番をしよって」
「いえね、三谷くん。君がいろいろ忘れてしまっているようでしたから、ちょっとその手助けをしてあげたんですよ。感謝してください」
いけしゃあしゃあと、彼はそう嘯いた。
「お前、いくら俺が憎くて堪らないからって、回りくどいんだよ」
やり方が陰湿だと思う。ジワジワと恐怖を掻き立てるような得体の知れない言動に、まんまと翻弄された。
もしかしたら彼は、滑稽に驚くさまをほくそ笑んで観察していたのかもしれない。
不快だと、三谷は顔をしかめた。
「ええ、それは否定しません」
何でもないことのように言う冷嶋に辟易し、三谷は立ち上がった。
「もう付き合ってられるか」
自宅が放火されたのが本当なら、一刻も早く状況を確認しなければならない。後処理が色々大変だろう。
「もしお前の言ったことが本当だったら、ちゃんと責任取ってもらうからな。覚悟しとけよ」
そんな捨て台詞のような言葉を残し、三谷は事務所を後にしようとした。
事務所の入り口の扉は固く閉ざされていた。
「……あ?」
取手を持って捻っても、扉はまるで開かない。鍵がかかっているわけでもなさそうだ。
クソと三谷はドンと肩から扉に体当たりした。軋みもしない扉に何度も何度もぶつかり、それでも開かないことに痺れを切らした三谷はガァンと扉を本気で蹴った。
「つぅ……!」
ただジンとした不愉快な鈍痛が爪先全体に走っただけだった。
腹の底で負の感情が荒れ狂っている気がする。気持ちが悪い。
いずれ自分でも感情を制御できなくなってしまうような、そんな不気味なさざめきが聞こえてくるようだ。
何だこのどす黒い負の感情は──。
三谷はふと思い当たる。
冷静かどうかも分からない頭で。
そうだ、これは──憎悪だ。
「逃げられませんよ、どこにもね」
ソファーから動きもせず、冷嶋がそう静かに言う。三谷は振り返った。
そういえば、と三谷はあることに気づいて愕然とした。
よくよく考えれば、この事務所に入ってきた記憶さえ三谷にはなかった。どうして今になってこんな大事なことに気づくんだ。
「最後にもう一つ、教えて差し上げましょう」
わざとらしい口調でそう言って、冷嶋は写真を顔の横に掲げた。
「この写真もね、結局は呪いだったんですよ。無意識に具現化された呪いだったんです。あなた自身の、ね。──ところで」
冷嶋は無表情にヒラヒラと手を振って、首を傾げた。
「失くしもの、まだ思い出せませんか?」
なおも平然とした冷嶋の態度に、さすがに堪忍袋の緒が切れそうになった。
「ふざけるな。俺が一体、何を失くしたって言うんだ? 勿体ぶってないで教えろ!」
ドンと踏み鳴らした床がミシリと嫌な音を立てた。
この事務所、今になって気づいたが、相当年季が入っている。
「僕の口から言っていいのでしたら言いますが、──もう時間もなさそうですね」
ちらりと写真に目を落として、冷嶋は続ける。
「正直、君自身に気づいてほしかったところですが、仕方がありません」
冷嶋は手銃のジェスチャーをした。
その手をゆっくり三谷に向ける。
突きつけられた紛い物の銃口に、三谷はヒヤリとしたものを感じた。
「お前、何のつもり──!」
バンと、冷嶋は口で言った。
それだけで何も起こらなかったが、冷嶋は続けてこう云った。
「──君には、大切な女性がいたはずでは?」
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