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*
気づけば、どことも知れぬ無機質な空間にいた。
のっぺりとしていて暗い、どこまでも冷え切っていて殺風景な場所。
まるで無意識の心の底を映した空間のようだと、三谷は思った。
はらりと、目の前に赤い何かが降ってきた。
おかしな場所にあって、それだけは禍々しいものでも、不吉なものではなかった。
椿の花──。
クルクルと回るように、奇麗な花が丸ごと落ちてくる。
時間が引き延ばされたように、ゆっくり落ちてくるそれを、三谷は大きな両の手で包み込むようにそっと受け止めた。
──あなた、二度とこんなことはしないで。
金糸雀の鳴くような可憐な声が聞こえた。しかし、その声には恐怖と懇願が混ざり、かすかに震えていた。
静かな怒りを秘めた空間に、クルクル、クルクルと幾つもの椿の花が舞い落ちてくる。
──生きましょうよ。大丈夫。いつまでも一緒だから。辛いのも全部、分かち合いますから。
ふわりと清楚でつつまやかな香りがした。
そうだ。三谷は思い出していた。
俺は一度、本気で自殺を考えたことがある。
誰もが知っている大手企業。三谷は新卒からその会社に所属して、今まで必死こいてのし上がってきた。努力の甲斐あって、若くして責任のあるポストにつくことができた。
だが、そんな三谷を躍進を面白く思っていない連中も多かったのだろう。
不景気のなか突如発表されたのは、事業の全面的な縮小と、──言葉を憚らずに言うなら人員削減。ようはリストラだった。
希望退職を募るが、その結果は目標としていた数に到底届かない。不本意ながら実施されたのは、他事業部への異動、そして非正規社員の大量解雇だった。
人員削減と大幅な組織変更によって、仕事の分担が大きく変わった。それでも役員から降りてくる絵空事としか思えないような業績目標。
仕事は死ぬほど忙しくなった。
そしてどういうわけか、──経緯なんて知りたくもないが、大量解雇における不満や憎悪の感情が一斉に自分に向いていた。
リストラに伴って、社内の影でさまざまな嫌がらせを受けた。胆力には自信があったのだが、さすがに心が折れかけていた。
もう疲れた──。
すぐ目の前を列車が通り過ぎていく。ぶわりと強風が吹き荒んだ後、通勤電車を待つ駅のホームで、三谷はふと思ったのだ。
ちょっと足を踏み出せば、全て終わるんだと──。
……その頃の記憶は、夢見心地で曖昧だった。
だが、記憶が掘り起こされたのか、鮮明に思い出せることもある。
斜陽に目が眩む。
ホームから足を踏み出そうとした瞬間、誰かから肩を掴まれた。
細い腕に引き寄せられてゆるりと振り返ると、パチンと強く頬を張られた──。
「ああ……」
三谷は椿の花を手の上に乗っけたまま、片手でそっと頬を押さえた。
予感がしたのだろう。三谷は、ふと視線をあげた。
椿の花が舞い落ちる視界の向こうに、赤い影をまとった女性が佇んでいた。
その姿が一瞬、別の姿を映し出した。それに気づいた途端、ザッ、ザアァと何度もノイズが入るかのように女性の姿がチラつく。
それが自分の見知った女性と重なり、三谷は目を見開いた。
──あなた、あなたも逃げないと──!
不意に聞こえたそんな悲痛な声が、頭から離れない。
暴力的な炎が燻る。炎は容赦なく女性を飲み込み、その身体が、顔が、伸ばした腕が見えなくなる。
椿──!
はらりと、三谷の手から零れ落ちた椿の花は、熱風に巻き上げられて、どこか遠くへ消えてしまった。
気持ちの悪い熱を残して、ぶわりと炎の渦が四散した。
気づけば、赤い影をまとった女性の姿は消えていた。
夢か現実か、過去か現在か。目の前の出来事の線引きがどこまでも曖昧で、すべてが現実味のない虚像のように映る。
ただ燻った炎の色合いだけが、三谷の目に、この空間に残存していた。
そんな空間に水滴が落ちるように、ふと儚げな笑顔が浮かぶ。
そうだ。彼女は俺の希望だった。それなのに──。
三谷は真っ黒な空に向かって吼えた。
何故、どうしてこうなった。
誰が彼女をこんな目に遭わせた。
誰が、誰が誰が誰が誰が──!
猛る憎悪の向き先は──。
三谷は血を吐くように叫んでいた。
「お前が、殺した──!!」
*
三谷は事務所に立ち返っていた。
目の前にはなお悠然とソファーに腰掛ける、冷嶋の姿。
そして、そのソファーの奥には、赤い影の女性が佇み、冷嶋を見下ろしていた。
「哀れですね」
ちらりと冷嶋は赤い女性に視線を向けたかと思うと、再び三谷に視線を戻した。
「後を追わせてあげたほうが、幸せでしたのに」
そう、三谷に対して言った。
「どこまでもふざけおって……!」
憎悪の炎が破裂しそうだった。
その表情は、一体なんだ。三谷には、冷嶋が最後に浮かべた表情に、感情を見出すことはできなかった。
「よかったですね。君をこんな目に遭わせた凶悪犯に、復讐することができて」
どこか皮肉まじりにそう言って、冷嶋はそっと目を瞑った。赤い影をまとった女性がぶわりと、彼に抱きついていた。
その瞬間、彼の身体が勢いよく燃え上がった。
炎の勢いはそれだけに止まらない。
大きな火の粉があちこちに飛散し、またたく間に事務所に燃え広がっていく──。
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