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11.椿の君
透明な窓の向こうには青い月が輝いていた。
淡いベージュ色のカーテンが窓の両端に丁寧に括られ、そっと控えていた。
夜の帳の降りた病室に、三谷はいた。
シンとした静謐な空気が漂っていた。ほのかな月明かりで照らされた白い空間は、どこか神秘的にさえ映る。
先ほどまで荒ぶっていた感情が、急速に冷めていくようだった。
三谷は直感的に気づいた。自分は、先ほど入れなかった病室にいるのだと。
目の前の清潔なベッドに、誰かが眠っていた。その人の顔や腕には、あちこちに純白の包帯が巻かれている。
包帯の隙間から見える肌を見ても、ずいぶん酷い火傷を負っているように思えた。
だが、三谷にはこの女性が誰か、何となく予想はついていた。
ベッドのかたわらに添えられた素朴なプレートの名前が、三谷の予感を確信づける。
三谷椿──。
俺の愛しい、妻だ。
中学校からの幼馴染。ふわりとした可憐な笑顔に一目惚れをした。長い付き合いを経て、結ばれた。
無機質な機械音が響く。
ベッドのかたわらにある、黒色の背景に緑の線が上下する画面が映し出されたモニター。
生体情報を表すそれは、彼女が間違いなく生きていることを物語っていた。
ああ、よかった。生きていたのか──。
急に力が抜けた。ベッドのそばに崩れ落ち、三谷は熱いものがこみ上げてくる目尻をそっと押さえた。
一気にいろいろ思い出したからか、感情の起伏に翻弄されるようだった。それでも構わない。
よかった、よかった──。
三谷は安堵を噛み締めていた。
「あなた──」
そんなか細い声が聞こえ、ハッとして三谷は妻の顔を見やった。
静かな青い月明かりに照らされた妻の横顔が映る。
目は閉じられたままだったが、その彼女の頬に、つうと涙が伝った。
怖い夢でも見ているのだろうか。
もしかしたら自分と同じような夢を見ているのかもしれない。
三谷はそっと笑いかけた。大丈夫、悪夢はきっともうすぐ醒めるから。
膝立ちになって、その涙を左手でそっと拭うと、心なしか彼女の表情が和らいだ気がした。
三谷は自分の伸ばした指を見て、不意に冷嶋から言われたことを思い出した。
──指に違和感、ないですか?
──失くしもの、まだ思い出せませんか?
その言葉の意味にようやく気づいた。不甲斐なさに三谷はぎりと奥歯を噛み締めた。
どうして、今まで気づかなかったのだろう。三谷は左手の薬指をさすった。
ない。ずっとつけていたはずの結婚指輪が、なくなっている。一体、どこで失くしてしまったんだ──。
突然、何かに視界が遮られ、「わぷ」と三谷は変な声をあげた。
顔に何かが貼りついたようで、三谷は指で摘むようにそれを剥がした。
今まで何度も見てきた写真だった。
写真は三谷を残して、それ以外すべて赤く染まったままだった。
三谷はそっと息をついた。真相を知ったからといって、写真が元に戻る訳ではないんだな。
三谷は写真をかたわらのテーブルに置こうとした。
その手が半ばでピタリと止まった。
その顔が、徐々に驚愕に染まっていく。
ずっと三谷が見ていた赤黒い影の正体は妻の椿だった。おそらくこれは、三谷自身が恐怖心、そして内に秘められた復讐心から生み出した幻影だと、解釈している。
そしてこの元凶を作った冷嶋は、もういない。
三谷を脅かす存在は、もういないはずなのに。
それなのに、どうして。
──どうして、まだ赤い侵食が進んでいるんだ!?
紙にインクが染み渡るように、手の中の写真がどんどん赤く染まっていく。
三谷が具現化したという写真が、自分の意思とは関係なく侵食されていく。
ああ、と三谷は目眩を覚えて写真を手放した。
はらりと写真が宙を舞う。
病室の床に写真が滑り落ちる頃、写真は全て真っ赤に塗り潰されていた。
三谷は何か抗いようもない強い力に、ぐんと引っ張られる感覚がした。
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