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自殺未遂で済んだのは、妻のおかげだった。
駅で妻に自殺を直に止められ、夢見心地でそのまま家に帰り着いたその日。
普段はおっとりした妻から、もの凄い剣幕で怒られた。
最近疲れきっていて様子がおかしいことを、彼女はちゃんと気づいていた。
「──あなた、二度とこんなことはしないで」
涙目で必死に声を震わせていた椿は、最後にふわりと抱きついてきた。
「──生きましょうよ。大丈夫。いつまでも一緒だから。辛いのも全部、分かち合いますから」
危うく自分はとんでもない過ちを犯すところだった。妻に多大な迷惑を押しつけて消えてしまうところだった。
だから、三谷は思ったのだ。
どんなに辛くても、必死に頑張って足掻いて生きていこうと。今を乗り越えば、いつかきっと穏やかな日々が訪れるのだと、そう信じて。
だが、俺のことを恨んでいる者は多かったのだろう。──殺意を抱くほど憎まれているとは、さすがに思わなかったが。
そんな騒動があってしばらく経った頃、会社の同僚だった冷嶋が家に訪れた。
探偵なんてものを始めたらしく、久々に話を聞けたこともあり、大いに話は盛り上がった。
ウイスキーロックと酒の肴をあてにして、妻と冷嶋と三人で夜遅くまで飲み明かした。気の利かない冷嶋が、珍しく酒の注ぎ足しなんかをやっていた。
彼も仕事環境が変わって、色々心境の変化もあるのかもしれない。少し心配していたが、何とか彼もうまくやっているようで安心した。
それほど飲んだわけではないが、途中急激に眠気が襲ってきたのを覚えている。
椿は隣でテーブルに突っ伏して可愛らしく寝息を立てていた。あまりの眠たさに悪いな、と冷嶋に断ることもなく、なんとか椿を寝室まで運んで、自分もバタンと倒れるように寝床に入った。
いまにして思えば、あの睡魔は異常だった。
どこかのタイミングで冷嶋に何か盛られていたのかもしれない。
たとえば、キッチンに常備していた睡眠薬。香り、味ともに強いウイスキーにでも溶かしてしまえば、よほどのことがない限り気づかない。
そこから記憶は断片的だった。
覚えているのは、──いや、思い出したのは、寝室が火の海になっていたことだけだ。
肌を焼く荒ぶる熱気、立ち込める黒煙、ロクに目も開けられない状況で、床に這いつくばり、必死に首を反らして見上げた先にあったのは、妻の泣き顔だった。
「──あなた、あなたも逃げないと──!」
ぐいと腕が引っ張られる。
三谷は動けなかった。何の悪戯か、天井から落ちてきた梁が、三谷の両足を押し潰していた。
このままだと二人揃って焼け死ぬ──。
「──いいから、行け!」
たしかそう叫んで、ドンと妻を押した。
絶望に顔を歪め、妻は引き戸を開け放って寝室から姿を消した。
その姿を見送り、三谷はそっと目を瞑った。
煙を吸いすぎたのか、その後の記憶はプツリと途切れている。
「……」
そんな追憶後、三谷は自分を見下ろしていた。
真っ黒に炭化した、自分自身の亡骸を。
そうか、三谷は息の抜けるように小さく笑った。
──俺はもう、死んでいたんだな。
何か強い力でも加わったのだろう。その左腕は、半ばで崩れてもげていた。
三谷はゆっくりその場にしゃがみ込んだ。
もしかしたら、変に動かせば自分の身体も崩れてしまうかもしれない。
そんな畏怖が燻っていたが、同時に相反する感情、──ゆっくりと染み渡るような安堵も感じていた。
──こんなところにあったんだな。
崩れかけた亡骸の左手の薬指には、結婚指輪がはめられていた。
いつの間にか足元に写真が落ちていた。
写真にはもう、赤い影など蠢いていなかった。
何の変哲もない写真。
三谷を含めて、四人の旧友の姿が写っている。
三谷は写真を拾い上げた。赤黒く染まった指の腹で、そっと写真の中央の女性を撫でた。若かりし頃の妻の写影。その元凶だった男も報いを受けた。全て忘れていた記憶を、いや、通常なら知り得なかった真相を知ることもできた。
死んだ身としては十分な成果ではないか。三谷はどこか達観した感情を抱いていた。
三谷は結婚指輪をそっと拾い上げると、ゆっくりと立ち上がった。
あとほんの少しくらい、時間あるよな?
窓の外の大きな月を見つめて、誰に言うわけでもなく問い掛ける。
最後に、妻に安心させるような言葉をかけてから、逝きたい。
それくらい、別にいいだろう?
──。
──。
真っ黒に炭化した部屋のなか、煤けたサイドテーブルの上にあるのは、小洒落たロックグラス。まるで切り貼りされたように場違いなそれは、なかに琥珀色の液体をたたえていた。
その二つ寄り添うように並ぶグラス。かたわらには、結婚指輪がそっと添えられていた。
からりと、ウイスキーに浮かぶ丸氷が、満足げに小気味のいい音を立てた──。
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