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思わず悲鳴が漏れそうになった。
いつから居たのだろう。暗闇に紛れるように佇んでいたそいつは、小さくなぁと鳴いた。
Kは拍子抜けした。
「……なんだ、猫か」
恐怖を吐き出すかのようにKはそう言って笑った。
というより、この閉鎖された建物の一体どこから入ったんだとちょっとした疑問が浮かんだが、正直そんな些細なことはどうでもよかった。
Kはちょんと猫のそばにしゃがみ込んだ。
首輪がないから野良だろうか。まったく逃げる気配がない。警戒している様子もなく、ただ尻尾を左右にゆらゆら揺らしている。
「お前どうしたんだ?」
おもむろに背中を撫でてみた。
なぁと気持ち良さげにそいつは鳴いた。可愛いな。
廊下からかすかに足音が響いてきた。ようやく二人がきたのだろう。
「おーい、K。本当に何もないんだろうな?」とTの声が聞こえてきた。
ああ、とKは振り返らずに生返事をした。厳密に言うと猫がいたから、何もいなかったわけではないが。
「ほら見てよ。こんなところに猫が──」
そう言いながら立ち上がって振り返り、Kはふと言葉を切った。
扉の前にいる二人の顔が、恐怖に固まっていた。
「え、なにその顔?」
小首を傾げそうになった矢先、二人の口からほとんど同時にとんでもない悲鳴が迸った。
Kの身が強張った。何事かと聞くより早く、二人がバタバタと脱兎の如く廊下を駆け去っていく。
尋常でない狼狽に、背中にゾワリと嫌な寒気が走った。
何となく、振り返ってはいけない気がした。
「可哀想に」
不意にそんな猫なで声が背中から聞こえた。二人を追おうとしたKの足は、金縛りに有ったかのように動かなくなった。
緩慢な動作で振り返ると、事務所の窓を背景に、高校生くらいのツインテールの女性が佇んでいた。それだけなら、二人ともあれほど驚きはしなかっただろう。
喉の奥からヒッと引き攣った声が漏れた。
その女性の姿は透けていた。ぼんやりと事務所に浮かび上がるように、青白い光に包まれている。
でた、幽霊──!
「君はここからそう遠くない数年後、凄く辛い目に遭うのね」
恐怖の最中にありながら、今時の幽霊はちゃんと言葉も喋るのだなと、どこか場違いな感想を抱いた。
「何度も何度も、迷い惑って、重くて痛い。そんな思いを引き摺って、ずっとずぅっと──」
要領を得ない不吉な言葉を紡いだ彼女は、そこでふっと口を噤んだ。
「──今死んでしまったほうが、楽だと思えるくらいに、ね」
すぐ耳元で囁くような声が聞こえた。
足が動くようになっていた。
だが、Kが身を引くより早く、トンと何かに胸を押された。
それだけだった。
手から離れた懐中電灯が、床に落ちてガシャンと煩い音をあげた。
Kはそのまま、ドゥと仰向けに倒れた。
したたかに背中をぶつける。
事務所の床は固くて冷たかった。
ピシャリと何か生暖かい液体が頬に飛んできた。
蛍光灯も付いていない暗い天井。
視界の下端に映る、鈍色の凶器。突き立てられた一本のナイフ。柄は見える。鋒は見えない。
ああ、これは。どこか夢見心地でKは思った。
きっと突き刺さっているのだろう。
──自分の左胸に。
じわじわと止め処なく、命の源が流れ出ている気がする。苦しくなって咳き込んだら、喉の奥から鉄の味が逆流して、堪らず血の塊を吐き出した。
「じゃあね。もうこんなところに来ないで」
急激に目の前が暗くなりつつあった。
ペロリと小さな舌に頬を舐められた気がした。
ああ、二人の持ってくる話に乗ると、本当にロクな目に遭わない。
Kは目を瞑った。
もう二度と妙な誘いになんか、乗らないから、な──。
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