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いつからいたのだろう。
坂の上に制服に身を包んだ田中が立っていた。三谷は目を細めた。陽が正面でちょうど逆光になっている。そのため田中の顔は暗く影が差していて、その表情はよく分からない。
「田中。お前、大丈夫か?」
出逢っていきなり大丈夫か、は少しばかりおかしい気もしたが、不吉な写影がずっと心の中に燻っている三谷は気づけばそう訊いていた。
田中は何も答えない。それどころか全く身動ぎさえもしない。
「おい、何か答えろよ」
そう言って、三谷は田中の肩を掴んで揺さぶった。
その彼の口元が醜く歪んだ気がした。嫌な予感がした。
三谷は咄嗟に身を引こうとしたが、それより早く手首に違和感が走る。
視線を落とせば、田中に手首を掴まれていた。予備動作が全くなかったため、掴まれた感触が先にあって尚、自分の目で確かめるまでその事実を認めることはできなかった。
「……お前、何のつもりだ!」
数刻遅れてそう言った三谷は、強引に田中に掴まれた腕を振り払った。
力比べにはそれなりに自信があった。手首にあった感触が消え、目の前の田中がバランスを崩してよろめいた。
その光景がやけにはっきり見えたのは、──目に焼き付いてしまったのは、必然であったと言えるのだろう。
目の前が一気にボゥと明るくなった。いきなり目の前に火柱が上がった。
ドサリと音がした。気づけば、三谷は尻餅をついて、声もなくその光景を見上げていた。
煌々とした色合いが三谷の瞳に映って揺れ動く。
火柱の中心に、田中がいた。
目に鮮やかな暴力的な炎とは対照的に、黒い影の輪郭が不明瞭に揺れ、やがてボロリと崩れる──。
バチっと何かが爆ぜる音がした。“それ”がこちらに手を伸ばしてきた気がした。
炎の熱気が肌を舐め、「……あ」と漸く声が出た。
気づけば、喉から本能のままに悲鳴が漏れ出ていた。
“それ”から逃れようと、這うように後ろずさる。だが、何故か視線を逸らすことができない。三谷はずるずると身を引きずるように引き下がった。
不意に強い風が吹いた。土臭い匂いとともに砂埃が舞う。思わず三谷は目を瞑った。
目がチクチクする。多少砂が入ったようだが、そんなこと気に留めている場合ではない。
三谷は痛みをおして、うっすら目を開いた。
もう目の前からは鮮やかな色合いは消え去っていた。
乾いた茶色の地面に、黒い灰だけが残っていた。
だが、三谷の瞼の裏にはくっきりと鮮明な色合いがこびりついていた。
──あたりが暗くなっていた。
石の塀が、家の漆喰の壁が、夜の帳を受けて仄暗い闇にぼんやりと浮かんでいる。
空を見あげると満天の星が広がっていた。田舎には街灯がほとんどないため、それだけ言えばロマンティックな光景だが、そんな郷愁に浸る余裕など微塵もなかった。
目の前の灰の山も暗闇に沈んでいる。殊更気になるものではないのだろう。
──今しがたの光景を見てさえいなければ。
ジャリと背後で音がした。慌てて振り返れば、そこには黒須が立っていた。
「おい、脅かすなよ」
強がって張ったつもりの声には、全く力が入っていなかった。
「おどかしてなんていない。ずっといたし。オジさんが勝手に驚いただけ」
素っ気なくそう言った黒須は相変わらず冷めた目で三谷を見下ろしていた。
もはや苛立ちは感じなかった。逆にその不敵な態度に救われるような気さえする。というより、どうしてこんな摩訶不思議現象を目の当たりにして、彼女は動じていないのだろう。
「なぁお前も見たよな? 人が燃え上がって、いきなり夜になって」
三谷の言葉に黒須は目を瞬いたが、やがて「はぁ?」と片眉をつり上げた。
「なに寝ぼけたこと言ってるの。だってずぅっと夜だったじゃない。それに暗いから気をつけろって、私さっき言ったつもりだけど?」
当たり前のようにそう彼女は言って「ほんとに大丈夫?」と最後には憐むような顔をされた。
小娘にそんな顔をされては、男のプライドが傷つくというか、羞恥心が掻き立てられるというか、とにかく傷心に身悶えするような気持ちになる。ああ、くそと三谷は顔を押さえた。
「ああ。オーケー、大丈夫だ、問題ない」
柄にもなく、そんな安易で軽薄な三段活用を吐き出し、三谷はゆっくり立ち上がった。
服についた砂埃を払い、ついでにポケットにしまっておいた写真を引っ張り出す。
写真の様子は直前に見たものから変わっていなかった。相変わらず二つの赤黒い影が、三谷の心に不気味な影を落としている。
これは一体どういうことなのだろう。
赤黒い影に呑み込まれた田中が目の前で燃え上がり、灰になって消え去った。現実味のない光景を目の当たりにしていながら、これが現実か夢なのかの判断も正直ついていない。
めちゃくちゃだと、三谷は思った。
現実か夢かの区別かつかない? この自分が?
そんな馬鹿なと一笑に付してそのまま流したい衝動に駆られるが、そんなことをしても意味がないことも何となく分かっていた。
「……この状況、一体何なんだろうな」
「オジさんに分からないなら、私に分かるはずないでしょ」
三谷は呟いたつもりだったが、律儀に黒須が答えてくれた。しかし、どこまでもトゲのある物言いだった。
「で、オジサンはどうしたいの?」
「どうしたいのって言われてもな」
居心地悪く、三谷は暗い帳の降りたあたりを見回した。
視界の端で何かがガサリと動いた。
黒須の背後、さきほど田中が燃え上がったその場所に、──長い髪を振り乱した赤い影が佇んでいた。
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