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04.悪夢か若しくは
「うあぁっ!?」
三谷は自分の悲鳴とともにガバリと身を起こした。
目の前には、見覚えのある無機質な事務所が広がっていた。
どうやら、ソファーの上で不格好に横になっていたらしい。三谷はソファーから足を下ろして項垂れた。
鼓動が暴れている。手で顔を覆うようにして、荒れている呼吸を必死に整えようとした。
「悪い夢でも見ましたか?」
対面のソファーには、平常心を表層に浮かべた冷嶋が座っていた。その目は、彼の広げた新聞に落ちていた。
夢、やはり今のは夢だったのだろうか。
一体いつの間に眠っていた?
ズキリと頭に痛みが走り、三谷は頭を押さえた。脈拍に合わせるように顳顬のあたりがジクジク疼く。不眠症のときとはまた違う、気持ちの悪い鈍痛に、三谷はしばらく目を瞑って耐えていた。
「頭痛ですか? 何か薬いります?」
その声にわずかに視線をあげれば、冷嶋がこちらを見つめていた。彼の目線がちらりと横に逸れた。事務所の傍らには、ちょっとした炊事場が備えつけられていた。冷嶋の言うとおり、何か常備薬でも置いているのだろう。
「……いや、いい。多分、しばらくしたら治まる」
三谷はそう言って、冷嶋の申し出をやんわり断った。
「そうですか」
冷嶋はそれだけ言うと、再び新聞に視線を落とした。
「──不景気の影響が社会に顕在化してきているそうですね」
出し抜けに、冷嶋がそんな暗い世間話を始めた。
「理由をつけての大量解雇だそうですよ。見ているだけで暗鬱とした気分になりますね」
「だったら、よそでやってくれないか。余計頭が痛くなる」
「それは失礼」
冷嶋はパラリと新聞をめくった。しばらくそんな軽くて断続的な音が三谷の耳を滑った。
視線を落とすと、床に一枚の紙が落ちていた。少し色褪せたそれは、ただの紙ではない。
頭痛の治らない陰鬱な心持ち、三谷は無造作に写真を拾い上げる。恐る恐る引っくり返してみるが、写真は変化していなかった。少しばかりほっとした。
「ところで三谷くん」
新聞を畳む音と、冷嶋の声が聞こえた。
三谷は写真を机の上に置いて、冷嶋の目を見返した。
「何だ?」
「指に違和感、ないですか?」
彼はそう言ってわざとらしく自分の掌を見せてきた。意図の掴めないピンポイントな冷嶋の問いに、三谷は眉を寄せて険しい表情をした。
「……どういう意味だ?」
「どういうって、そのままの意味ですけど」
どうも冷嶋は説明を倦厭している節が見える。
ちょっとした苦言を呈そうとも思ったが、それより三谷はうすら寒い感情のもと、自分の指を見下ろした。
両の手の平、手の甲をまじまじと見つめる。
何ともない。三谷はそっと息をついた。自分のことは自分が一番よく分かっているつもりだ。
異変、といったものは殊更感じられない。
「特に何もないが」
「──そうですか」
それだけだった。それだけ言うと、もうこの話は終わりだと言うように冷嶋はゆるりと足を組み替え、今度は机にあった雑誌に手を伸ばした。
さっきからこいつは何のつもりなのだろう。
ただ問い掛けてくるだけで、いざこちらが追求しようとすると、こちらが拍子抜けするくらい、あっさり、バサリと話を切り上げてしまう。
……ふいに不快な光景がフラッシュバックした。
暗い夜道。掴まれた手首。
ボロリと崩れ落ちた自分の、左腕。
三谷は無意識に腕を押さえていた。
腕は、あるよな。そもそも手はあるんだから、そんなのは当たり前だ。三谷は一人強がるように小さく鼻で笑い、淡いブルーのワイシャツの袖をめくった。
ほら、こんなの自明の理だ──。
そこで三谷の息が止まった。
一気に袖を肘までめくって露出した腕には、いつの間にか火傷の痣ができていた。
視界の端で、じわりと不吉な色合いが蠢いた。
三谷はバネのように立ち上がり、バンと机に手をついて写真を見下ろした。
「どうしたんですか?」
冷嶋の不思議そうな声が耳を素通りする。
写真のなかで、まるで血が床に広がるような緩慢な速度で、赤い影が次の生徒の姿を飲み込んでいった──。
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