10人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 ジョニー死す
僕は道を歩いていた。たぶんどこかの商店街。白地に黒字で「えびす食堂」と書かれた大きな看板を掲げた古びた食堂、ワンピースなどの婦人服を着せられたマネキンが並ぶ洋服屋、そして少し錆びついた缶ジュースの自販機……。瓦屋根の向こう側から白い発光体となった太陽が顔を覗かせ、それらすべてのものを優しく包み込んでいる。
その日差しを白く照り返すアスファルトの地面には通りを行き交う人々の影が長く伸びている。その影の本体であるはずの人々もまるで自分の影に侵食されたかのように黒くぼんやりとしていた。
僕の少し先を歩いていた影がふいに足を止めた。僕はそこに向かって小走りする。それが誰なのかはわかっていなかったが、それでもどこか懐かしく、温かな気持ちが溢れ出していた。影はゆっくり顔を振り向かせて口元に笑みを浮かべた。
そこで目が覚めた。
スマホの着信音が鳴っていた。薄く目を開けた視界に不気味な微笑を湛えたマトリョーシカ人形が見える。会社の同僚がロシア旅行の土産にくれたものである。夢から現実へと意識が戻されてもその春の日差しのような温かな余韻だけはわずかに心に残されていた。が、それもしつこく鳴り続ける着信音にやがてかき消されていく。
「うるさいな!」
寝ぼけ眼でベッドの上を手探りでスマホを探した。手になにか柔らかなものが触れた。とりあえずプニプニと揉んでみる。すると、その手の甲をぎゅッとつねられた。すぐ隣で寝ていた七海の乳房だった。
ようやくベッドの下にスマホを見つけて電話に出た。実家の母からだった。
「歩! あんた早く出なさいよ!」
「なんだよ、こんな早朝から」
「早朝ってもう十時を過ぎてるわよ」
「で、なに?」
「中村さんのところの大介さんが亡くなったのよ」
「ふーん」
「ふーんってなによ。中学生の頃あんなに仲良くしてたのに」
「そうだっけ?」
「とにかく今夜お通夜をやるらしいから、すぐにこっちに戻ってきなさいよ」
「今夜? なんでそんな急に……」
「私だってさっき知ったのよ」
「今夜は無理だよ」
「なにか予定があるの?」
「彼女とナイトプールに行くんだ」
「そんなのいつだって行けるでしょ!」
「喪服がない」
「お父ちゃんのを借りて着ていきなさい。それとあんた、香典は用意できる?」
「いくら包めばいいの?」
「一万円くらいね」
「それくらいは用意できるよ」
「ピン札じゃないのにするのよ。それとあんた……」
「うん、うん、うん、うん、うん……」
早く話を終わらせたくて適当に相槌を打って強引に電話を切った。
スマホをベッドの上に放り投げて窓のカーテンを開けた。初夏の強烈な日差しが斜めに差し込み、その光の帯の中を埃が舞う。その明るさでベッド棚に置かれたマトリョーシカ人形の不気味さも少しだけ和らぐ。
ワンルームの一角に設けられたキッチンで電気ポットに水を注いでスイッチを入れた。湯が沸くのを待つ間、流し台に背中をもたれて両腕を組んで考えた。
中村大介って誰だっけ……?
中学生の頃に仲良くしていたというのだからおそらく中学の同級生なのだろう。当時の記憶をたどってその顔と名前をひとりずつ思い出していった。が、そんな名前の同級生はまったく思い当たらない。代わりにいじめに遭っていたときの惨めな記憶が蘇ってくるばかりだったのでそれ以上考えるのをやめた。
電気ポットがパチンと音を鳴らして湯が沸いたことを知らせた。それとほぼ同じタイミングで七海もベッドから上半身を起こす。全裸でその胸元だけを掛け布団で隠している。彼女の服と下着はフローリングの床に脱ぎ捨てられたままになっていた。
「コーヒー飲む?」
「うん、飲む」
二個のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、砂糖もたっぷり入れる。僕も七海も大の甘党なのだ。そこに電気ポットから熱湯を注いでティースプーンでよくかき混ぜてからそのうちの一杯を七海に渡した。
僕は床に腰を下ろし、彼女はベッドに座ったままコーヒーをふうッと冷ましてからズズッと音を立てて飲む。丸顔の大きなたれ目で、特顔を少しうつむけたときのその顔はガチャピンにそっくりだった。
彼女とは大学のサークルで知り合って付き合うようになったのだが、そのサークル内でのあだ名もガチャピンだった。が、僕がそのあだ名で呼ぶとすぐに機嫌を損ねてしまうため、付き合う前から僕だけは彼女のことを本名の七海で呼ぶようにしていた。
「さっきの電話誰から?」
「実家のお袋から」
「なんだって?」
「今夜お通夜があるから帰ってこいって」
「今夜って……私とナイトプールに行く約束じゃん」
「だから、ごめん。それはまた今度に」
「ひどい!」
「人が亡くなってるんだからしょうがないだろ」
「誰が亡くなったの?」
「中村さん」
「誰それ?」
「僕も知らない」
七海はコーヒーをぶッと吹き出し、白いベッドシーツに染みを作る。
「知らない人のお通夜に参列するために私とのデートをドタキャンするの?」
「うーん、それはまあその……」
僕は曖昧に言葉を濁してコーヒーをズズッと啜る。
「何時くらいに行くの?」
「お通夜は夜からだから夕方くらいに出れば大丈夫かな」
実家は足立区北千住の下町で豆腐屋を営んでいた。僕の一人暮らししているアパートは世田谷区烏山にあり、同じ東京都内だったので、電車で一時間もかからずに帰省することができた。
「じゃあ、それまでどこか遊び行こうよ。原宿でパンケーキ食べたい」
「原宿は遠いよ。上野あたりにして」
「絶対やだ」
「わがまま言うなよ」
コーヒーを飲み干して空になったマグカップを流し台に運んだ。その途中、白い壁にインテリアとして掛けてあったフェデラハットが目に付いた。映画「インディ・ジョーンズ」の中で主人公が被っていたのと同じモデルである。
「あッ!」
その瞬間、僕は思わず声をあげてマグカップを床に落としていた。
「どうしたの?」
「思い出した。クソ。なんで……」
唇をきゅッと噛み締めて視線を床に落とした。マグカップは取っ手が根本からポキリと折れていた。
かつてインディ・ジョーンズ気取りでこのフェデラハットを常に被っていた男がいた。彼のことはずっとジョニーというあだ名で呼んでいたので、その本名が中村大介であることをすっかり忘れていたのである。
最初のコメントを投稿しよう!