第1章 薔薇園の精霊

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第1章 薔薇園の精霊

多分本気で追い詰められると、人間てあまり先のことまで思いが至らなくなるものなんだとおもう。 でも振り返ってみれば物心ついてからこの方、心の底から安心して落ち着いた心持ちで過ごしてた時期なんてほとんどなかったように感じる。いつも家の中にどこか切羽詰まった空気がある気がして、一日一日が綱渡りの連続みたいにひやひやしてた。 公平に言って、うちの親は子どもを虐待するようなタイプではない。暴力を受けたり酷い言葉を浴びせられるようなことは記憶にある限り一度もなかった。 だけど客観的に見ても二人とも何というか、大人としての責任感は全然足りてないんじゃないかと思う。わたしが外側の人間だったらそんなんならわざわざあえて子ども産んで家庭とか作らなきゃいいじゃん。と考えたに違いない。まあ、それだと自分はこの世に生まれてないので。その方がよかったとか簡単には言い切れないとこあるけど…。 わたしの知ってる範囲では父親は働いたり働かなかったり働かなかったり、まあざっくり言うと初期も含めて家にいた間二、三割は仕事してない期間だったんじゃないかと思う。つまり無職。収入なし。 母親はその間基本的にずっと働いてた。でも今思えば特に技能や学歴もなかったんだろう。大概それほど実入りのよくないパートやアルバイトだった。家にいても家事や育児をするわけでもない夫のせいで、フルタイムで働く気力も湧かなかったのかもしれない。 わたしが中学生になってしばらくして母の姿が家から消えた。いつも無口でどこか不機嫌の匂いがして余裕のない人だったからあまり心の交流があった記憶もなく、そのときもわたしに対して特に言葉や書き置きも残さなかった。まあそれでもひと通り身の周りのことはこなせる中学に入る年齢まで家にいようとは考えてくれたんだろうから。そこは母なりに娘のことも思い遣ってたのかもしれない。単に我慢の限界に達したのがそのタイミングだったのかもしれない。今となっては彼女のその辺りの心境はもうわからない。 一体母は何のために家庭を作ったんだろう。結婚して子どもを産むことであの人が得たものって何かあったのかな。母が消えたとき父は特に衝撃を受けた風でもなくからからと笑ってわたしを励ました。 「いやいや。マカには世話をかけるなぁ。参っちゃったな、母さんについに逃げられちゃったよ。でも思ったより長く辛抱してくれたよな。まあ、あとしばらく力を合わせて一緒に頑張るか。よろしくな、我が娘」 しょうがないよな、母さんもずいぶん前から別に好きな男いたみたいだしな。とかそれに続けて娘の前で平気で口にしやがったので頭が冷えた母がそのうち帰ってくるかも、って望みもきっぱり絶ってくれた。決まった相手がもういるなら。そりゃこんな男のとこ、もう戻る気になるわけないよな…。 そんなわけでそれから父親と二人での暮らしが始まった。そうは言っても別に心を入れ替えて改めて働きに出るでもなく。母がいる頃と同じく家でごろごろしてばかりで思いついたように出かけて数日帰ってこないとかもざらだった。母と違ってフレンドリーというかわたしへの接し方は気安くていつも理由もなく機嫌がよかったから家の中の雰囲気は悪くはなかったけど。それで明日のご飯がどこからともなく湧いて出てくるでもない。 時折パチンコで当てたぞ、とか馬で当てたとか言って外に食事に連れて行ってくれたりもしたがその分普段の生活のためにとっとけばいいのに、と内心密かに考えざるを得なかった。数ヶ月ごとに思い出したように記名のない封書で(しかも普通郵便。書留でも何でもない)数枚の万札がわたし宛に送られてきたのはありがたく、それで何とか暮らしが成り立ってた。宛名の筆跡からして母だろうなと当たりはついたけど、父に知られたらまたギャンブルに突っ込まれるのは火を見るより明らかだったからその話はしないでおいた。 そう思い返すと母にも離れて暮らすわたしを心配する情はちゃんとあったんだと思う。高校生になる頃にはそれも次第に途絶えがちになったが。 中卒で就職してもさすがに潰しが効かないだろうと思ったからとにかく入れる高校に何とか潜り込んだ。虐待こそされてはいなかったけど明日のご飯も用意できるか怪しい生活はやっぱり落ち着かなくて、将来のことまで考える心の余裕がなかったから本気で勉強に集中することもできなかった。 あとで考えたらうちみたいな親を持った子どもこそ、しっかり独り立ちするためにも絶対何か身につけた方がよかった、としみじみ後悔したけど。リアルな当時の心情としてはその日その日をどうやり過ごすかで頭が一杯だったし、進路を相談する相手もいなかった。学校の先生にそんなことを切り出すタイミングもわからない。それに自分の家がこんな状態だなんて、当時は世間に明らかにするのも極力避けたいとしか思えなかった。自分の家族がまともな普通の人たちじゃない、って他人に知られるのが何故だか異様に耐えがたかった。 それにどうせ高校までは就学支援金があるから授業料は実質無料だけど、当然大学に行くお金は絶対に用意できないって確固たる自信がある。
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