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第2章 雨と迷い猫
強い水の匂いと地面を打つ音の細かな重なりで目が覚めた。…やばい。
「…雨だ」
低く呻いて何とか強張った身をベンチの上で起こす。背中や肩、身体のあちこちがずきずきするほど痛い。硬い椅子の上で毛布もかけずに一晩眠ったんだから、そりゃそうなるよな。無理もない。
それでもよほど疲れていたのか、こんなきつい環境でも夜が明けるまでしっかり眠れてたわけだ。辺りはもう普通に明るい。
いくらうちが貧乏だからってさすがに野宿なんて生まれて初めてなのに。自分は思ってたより数段図太い人間だったんだな、と半ば呆れながら髪をちょこちょこ手で撫でつける程度だが一応軽く身なりを整えて、恐るおそる東屋から頭を外へ覗かせた。
そこそこの雨量だ。ちょっと軽くぱらついてさっと上がる、という雰囲気じゃない。時季的にもしかして。今年はもうこれでやや早めの梅雨入り、とか?
「…そっかぁ。しまった、傘もなんも持ってない…」
周囲に人のいない気安さでつい、ぼそぼそと小さくこぼす。考えてみればどれだけいい天気だったとしても六月に入ってたんだから。数日中に天候が変わってそのままなし崩しに雨続きになってもおかしくなかったんだ。いくら余裕がなかったとは言っても玄関に置きっ放しの折り畳み傘一本くらいとりあえずバッグに突っ込んでくればよかった。
これじゃ、ここを出てまた駅方面へとぼとぼと降りていく間に相当濡れちゃうな。気温はそれほど低くないとはいえまだ真夏ではない。濡れたまま動き回ると風邪引きそう。ただでさえ一晩野外で寝てたんだし。
いやそれより心配なのは、あんまりずぶ濡れだと人目を惹くかも。下界に降りる途中の道はまだいいけど、電車に乗るとき自分のなりが周りの目にどう映るか。考えると気が重い。
スマホを取り出して改めて時間を確認する。まだ開門時間前か。と考えながら画面右上の電池残量については知らないふりをする。それでも夜間電源を切っておいたからまだ何とかしばらく保ちそうだ。
だけど次にいつ充電できるチャンスがあるかわからない。連絡を取りたい相手もいないし、必要最小限以外のときはできるだけ電源を小まめに切っておいた方がいい。
開門前に係員の人が見回りに来るのは避けられないように思えた。だけどこれだけ雨が降ってる中、もう一度地べたに這いつくばって濡れた藪の中へわざわざ隠れるのは正直つらい。
しばし悩んだけど、結局わたしはそのまま東屋の奥で息を殺して身を潜め、様子を見ることにした。
昨夜の出来事でわかったけどここは結構周囲の見通しがいい。ほんの少し周りより小高い丘になってるらしい。今は明るいし、誰かが近づいてくればこっちが先に気づけると思う。そしたら身体を低くして薔薇の陰に隠れてにこっそり移動して係員の目を避けて逃げれば。誰にも見つからずに門の外に出られるかもしれない。どうやらそれほどたくさんの人が常駐してる庭園じゃなさそうだってわかったし。
それで開園時間を過ぎるまでしばらくじっと辺りを警戒しつつ身を硬くしていた。でも結局誰一人、ここには姿を見せなかった。従業員もお客さんも。
ほんとにひと気の少ない庭園だなぁ。誰にも見つからなかったのはもちろんありがたいことだけど、ここまで来るとさすがにちょっと呆れてしまう。
そういえば庭園を紹介するリーフレットもどういうわけか誰でも手に取れる棚じゃなくて案内窓口の中に置かれてたし。一応門のところに小さな看板こそあったけど、途中に道案内表示も何もなかった。係員の姿も結局一人も見てない(昨夜の真っ白な人がまさかの庭師さんじゃなければ。少なくとも何か作業をしてる様子はなかった。まあ、夜間の見回りに来てた可能性はゼロじゃない。その割に東屋に隠れてたわたしにも気づかないんだから役割を全く果たしてないとは言えるが)。
そりゃ入場料の金額を考えたら儲けは度外視なんだってことはわかるけど。商売っけがないにも程がある。こんなんでよく不心得な客に薔薇を荒らされないで済んでるなぁ。まあそれほど存在を広く周知してないぶん、変な人が寄りつくこともないのか。
そう自分を納得させて、一応の警戒を解かないままようやく東屋から上体を低く屈ませて忍び足で踏み出した。ここから門までは少し距離がある。慎重に、慌てずに。何とか誰にも見つからずに外に出なきゃ。
そんな心配は全然杞憂だった。門のところにたどり着くまで全く誰にも出くわさなかった。薔薇の陰になんとか隠れようとして、腰を低くする無理な姿勢で移動した意味がまるっきりなかった。無駄に疲れて損した…。
…ん?
「…あ、れ?」
念のため背後をきょろきょろ見回して、誰もいないと確信してからようやく門の内側に手をかけようとして初めて気づく。…すごいごっつい鎖がぐるぐる巻かれてて。そこに、がっちり錠前がかかって。…ないか?
えーと。…もしかして、今日。
「…休園日か?」
独りごちるとどっ、と肩に重石が乗っかったように感じた。そういうこともあるのかぁ…。そりゃ、そうだよな。
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