第2章 雨と迷い猫

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頭の中で無駄にぐるぐる思考が駆け巡る。えーと、今日って何曜日だっけ? 確か週末とか祝日ではない。てか六月って祝日ないよな。一週間のうち平日のどこかに休みが入るのはこういうとこでは普通だろう。年中無休にする必然性がある施設じゃない。定期的に客を入れずに締め切って手入れする必要もありそうだし。 あまり音を立てないよう、冷や冷やしながらもそっと門に手をかけて試しに動かそうとしてみる。…全然駄目。まあそりゃそうだな。こんなにがっちり鍵かけてるのに簡単に外せるようじゃ。錠前の意味ない。 「…どっか塀を乗り越えるしかないのか…」 はぁー、と重々しいため息が漏れた。当たり前だけどもともと資産家の家の庭だからだろう、見たところ庭園を囲んでる塀は高くて堅牢だ。 わたしは特別運動神経がよく生まれついてるわけじゃない。むしろ現在はしっかり食べてないからかかなり体力不足だ。このまま塀に沿ってぐるりと庭園の端を確認して回って、少しでも越えやすい場所を探すしかないか。まあ少なくとも休園なら、怪しい行動をしてても誰かに見られる確率は低くなる。 だけど運よく塀を乗り越えて外に出られても、今度はたまたま道にいた通行人に見られる可能性もあるよな。そんなの間違いなく通報されると思う。だけど、なりふり構わず塀を必死で越えてるときに人目につかないよう気をつけてる余裕なんか。正直あるとも思えないが…。 まあ、トライしてみるより先に思い悩んでも仕方ない。運よく足場のある箇所から何とかよじ登って外へ出られるかもしれないし。外からの侵入に較べたら内側から人が出て行く事態に対してはほとんど警戒してないはずだ。そう願うしかない。 しかし、万一どうやっても出られなかったらどうなるんだろう。わたしの胸の内にどよん、と暗雲が立ち込める。 背中に背負ったバッグの中にはまだ手をつけてない水がある。でもペットボトルは500ml。これで最悪あと二十四時間保たせられるだろうか。 まあ、水って意味なら今もわたしの全身をひたひたとずぶ濡れにしつつあるくらい辺りの空間に満ちてる。天に向けて口開けといた方がいいのか。確か水さえあれば結構長く人間は生きられるはず。…だけど明日の朝まで丸一日、何も食べられないってことだよね。ただでさえ今も空腹なのに。考えただけでくらっと気が遠くなりそう…。 心細く半泣きで身体の向きを変えて、塀沿いに歩き出そうとしたとき。…何を考えるより先に、いきなり自分の身体が怯えきった鹿か何かみたいにびょんと跳ね上がったのを感じて驚愕した。 耳に人の声が届いたのに対して反射的に慄いた、ってことが頭で理解するまで一拍以上かかった。 「…門。待っても、開きませんよ」 波のない平板な声。怒ったり不快に感じたりしてるわけではなさそうだ。振り向く前に誰がそこにいるのか、何故だかわかった気がした。 怖くはない。だけど心臓が半端なくばくばくと暴れる。相手にそれを気取られないよう精一杯落ち着いた声を出してわたしは思いきってその人のいると思しき方向へと身体を向けた。 「休業日ですか?今日」 「はい。…というか。もうしばらくそこは開きません。次に門が開くのは秋になります」 「へ?」 わたしはぽかんと間抜けな顔をその人の前にうっかり晒した。 視界に映る彼は、やっぱり昨夜の白い人だ。しとしとと降りしきる雨の中で見ても非現実なくらい美しい。ていうか、顔立ちや佇まいはすっきりとしてシンプル、決して華やかな雰囲気ではない。だけど。 生きものとしての美しさ、かな。静謐かつ気高いという感じ。生き汚なさみたいなものが全然ない。ほんとに植物そのものって空気だ。彼をつくづくと目が観察してしまうのと脳がその言葉を何とか噛み砕こうとしてるので一瞬自分の中がめちゃくちゃに混乱してしまった。 わたしは何とか気を取り直し、今耳にした台詞の尻尾を掴もうと顔を上げて彼の顔を正面から見返してはっきりとした声で尋ねた。 「今日お休みってだけじゃなく。…ここはもう閉鎖されてる、ってことですか?」 彼は静かな色を瞳に湛えて微かに頷いた。傘の下で、切れ長の茶色の目が翳って見える。やっぱりその顔のどこにも感情のかけらも見出せない。 「はい。昨日が春季開園の最終日でした。次に開くのは秋季になります」 え。 …そうだったのか…。 わたしはぐるぐるする頭でぼうっと彼の方を見ながら必死に考えをまとめようとした。思えばだから、リーフレットは奥にしまわれてたのか…。 駅員さんはそれを承知だったかもしれないけど、多分わたしは昨日そのままバラ園を訪ねるだろうと考えたから。翌日から閉まる、なんてことは特に問題にならないと判断したに違いない。 まさか女の子が一人でそこに潜り込んで一晩を明かすだろうなんて。普通は想定しないもんなぁ…。 「ですから何日そこで待っても外には出られません。…こちらへ」 そこで言葉を切ってふと背中を向ける。わたしがついて来てるかどうか振り向いて確かめもせずさっさと歩みを進めた。こんなにびしゃびしゃに雨が降ってるのに全然足音がしない。ほんとに精霊かなんかなんじゃないか?
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