第2章 雨と迷い猫

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わたしは凡人そのものの足取りで盛大に水をぴちゃぴちゃ跳ね返しながら慌ててそのあとを追いかけた。 うるさい足音に何か感じるものがあったのか。彼が前触れもなくふと足を停め、びびったわたしは思わずぬかるみで滑ってよろけそうになり懸命にその場で踏ん張って事なきを得た。 振り向いた彼は無言で開いた傘を持った腕をこちらに突き出してきた。…入れ、ってこと? だけどそうするとその人の身体は傾けた傘の内に全く入ってない。真っ白な髪に透明な雨粒が光るのが綺麗、と阿呆なことを考えかけてわたしは慌ててそれを脳裏から追い出し、首を振った。 「…これ。使いなさい」 わたしの手に傘の持ち手を押しつけ、自分はさっさと再び歩き出そうとする。一緒に入れって意味じゃなかったのね。まあ得体の知れない浮浪児と同じ傘になんか入りたくないか、セレブな方は。それは当然に想像つくけど。 でも。 「あの。…あなたが濡れます、それじゃ」 わたしは反射的に受け取ってしまった傘を持て余し、あたふたとその背中を追いかけた。彼は振り向かずすっすっと軽い足取りで進みながら素っ気なく返してきた。 「僕は平気です。お気になさらず」 いえいえ。白いシャツの肩があっという間にじっとり湿り始めてます。わたしは恐縮しきって何とかそれを彼に返そうと言葉を重ねた。 「でも、風邪ひいちゃいます。わたしは大丈夫ですから。どうせもう濡れてるし、今さら」 彼が歩みを止めずにちら、とこちらを見やった気がした。あまりに一瞬のことだったので気のせいだったかもしれない。それきり全くわたしの存在なんか忘れ去ったみたいに足を早めて先を行く。仕方なくわたしは両手で傘の柄を握り直した。 だいぶ古びたビニール傘。お金持ちなのに持ち物に頓着ないんだ、と考えかけたけど思えばここは彼にとって自分の家の庭なんだ。おそらく庭園を歩くときは普段からこれを使ってる、ってことなんだろう。外出するときはもちろんきちんとした傘を使うに決まってる。 思い返せばさっき、こんなに薄暗い空の下で傘を深くさしてたにも関わらず彼の髪の色や瞳の色が見て取れたのは透明なビニール傘越しだったからなんだな、と今になって改めて気がついた。わたしが自分の考えに気を取られてる隙に彼はこっちに構わずどんどん薔薇の波をかき分けるように先を行く。慌ててそれ以上遅れないようせかせかと頑張ってついていった。 沈黙がつらい、ってわけでもないけど。あまりに彼がとりつく島もないので多分こっちのことを自分と同じ人間とは思ってないんじゃないかって気がしてきた。それなら別に変なことを口にしてもかえって何とも思われないんじゃないか。と考え、遠慮する気が失せてその背中に駄目元で尋ねてみる。返事するのが嫌なら無言でスルーしてくれればいいし。 「…ここ、別の出口があるんですか?裏口とか。搬入口とか。そこから出してもらえる…、んでしょう。か?」 喋ってる途中で図々しいか、と思い直して口ごもる。他人んちに不法侵入しといて無罪放免で見逃してくれって申し出てるに等しい。だけど。 この人だって他人と関わり持つのはそんなに好きそうじゃないし。ここでわざわざお巡りさんを呼んでわたしを引き渡したりするの、その。…面倒じゃない?見なかった振りして庭から追い出して存在を忘れた方が。正直楽だよね? と口に出すのはさすがにおこがましい気がして胸の内に収めた。ふと顔を上げて彼の進行方向を確認する。 彼が真っ直ぐに向かっている先には、公開されてるバラ園と私邸の境に張り廻らされてる柵があった。先端が尖った鉄製の凝ったデザインのもので、そこにもびっしりとつるバラが絡まっていて向こうの庭は見えない。鉄製の扉が嵌められていて、彼が目指しているのはその方向だった。 やっぱり。 無罪放免とは。…いかない、かぁ…。 「警察を。呼ぶの?」 さすがに腰が引けてパニックになりかける。それが当たり前だろと理性ではわかるけど、実際に警察沙汰になったことは人生で一度もない。 そこで自分はどんな扱いを受けるんだ。家出してきた、と思われて自宅に連絡しても親が行方不明だってわかったら。 わたしはどこに送られるのかな。少年鑑別所?そこまでの犯罪じゃないと判断されれば施設か。いやでも、もう十八歳だし。保護されるってほどの年齢でもないような気が。 自然と怖気づいて足が止まってた。彼は扉の前で立ち止まり、わたしを促そうとしてかそこで振り向いて初めて二人の間に距離が開いてることに気づいたらしい。 その人は踵を返してわたしのところまで戻ってきた。手を取りこそしないが腕を伸ばして招く素振りで促し、自宅の方へと導こうとする。 彼はわたしの目を見つめて静かな声で告げた。 「大丈夫です。怖がらなくていい。悪いようにはしないから」 全然感情のこもってない声だけど。それでも彼が親切心でそう言ってくれてるのはわかった。 なかなか踏み出せないわたしに目を止めたまま、彼は重い音を軋ませて鉄製のドアを開いてわたしに進むよう軽く手で促した。
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