第2章 雨と迷い猫

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それからふと再び進行方向へと向き直り、感情のない声で付け加える。 「とにかく、こっちへ。…そのままってわけにはいかないでしょう。屋根のある場所へ行きます」 近くまで寄ると、その家は遠目に想像してた以上に規模が大きいのがわかった。 年季の入った風情のある煉瓦造りのどっしりした洋館だ。何だか美術館とか西洋のお城みたい。何だっけ、ノイッシュヴァンシュタイン城みたいな尖塔がぞろっと並んだいかにもってやつじゃなく。質実剛健な、えーと確かロマネスクっぽい?とか。やけに四角くて飾りがなくてずしん、どーん、としてるタイプの。 何人家族か知らないが、こんなに部屋数必要な家庭がそうそうあるとは思えない。ちょっとしたホテルじゃん。こりゃ掃除が大変だなぁ、と心底同情する。いや別にこの人が自分の手で建物中ダイソンかけて回ってるわけじゃないか。当然ちゃんとメイドさんとかお手伝いの人が雇われてるに決まってる。 現実逃避なんだろう、割にどうでもいいことが脳裏に浮かんでは流れてく。ここのお宅がどんな風に管理されてるかとか家族構成がどうとか、わたしに今後関係してくるとは到底思えない。 ここで電話取ってきて玄関先で警察の人呼ばれて終わりだよな。まあ、屋根のあるとこで到着まで待たせてくれるってつもりみたいだから。だいぶ温情処置とは言える。 その人は堅牢な正面玄関を横目に当たり前にスルーして建物の横に回った。やっぱり普段家族は通用口を使うのか。確かに、特別なときしか開けないと言われても納得の大仰なサイズの扉だ。 とぼんやり考えつつ無感情に彼のあとをとぼとぼついていった。この先どうなるかをわたしが考えてももう全然仕方ない。とにかく先方の考えのまま、何もかも成り行きに任せるより他なかった。 普通の家のちゃんとした玄関くらいの大きさの扉が建物の小脇にあり、彼が前に立つとかち、と微かな音がした。何でもないようにそのドアに手をかけて開けるのを見て少し混乱する。 内側から誰かが鍵を開けたのかと思ったけどそういうわけでもないようだ。確かに彼は全く声を出してなかった。何の合図もないのにそこまでタイミングを読める使用人もいないか。だったら音がしたと感じたのは気のせいで。最初から鍵はかかってなかったのかな? そのドアはしっかり現代の仕様に改装されていて、キーを身につけていればセンサーが読み取って自動で開く仕組みになってるのを後で知った。 普通のマンションや車でもそんなに珍しくない仕様だったけどそれまでオンボロ鉄骨アパートにしか住んだことなくて自家用車もない生活だったから、当然そんなものご存知ない。とにかくこの洋館自体は昭和初期くらいに完成した年代物という話だったが、実際に住人が普段使う箇所はちょこちょこと手が入っていて概ね改修済みだったのだった。もちろん全然使用しない部屋なんかはもう完全に閉めっきり、放置状態だって知ったのも後の話だ。 「どうぞ」 まさかのきちんとドアを押さえてわたしが入るのを待ってくれる。こんな男の人にエスコートされるなんて人生で最初で最後だ。てか最後って既に決めつけてるけど、あながち外れてもいないと思う。ぐずぐずと遠慮して時間かけるのもかえって失礼な気がして、どぎまぎしながら戸口をくぐり抜けた。 中は立派な一般家庭の玄関くらいの造りだった。そこそこの広さの空間がある。靴入れというか、棚があってそこにいくつか靴が並んでるけど上り待ちはなくて床はフラットだった。そうか、洋館だから。まさかの靴履いたまま家に入るのか!そりゃそうだな。 幸いマットは置かれてたのでそこでつい神経質に何度も靴裏を擦り付けて泥や水分を落としてしまう。家の人に捕まった現行犯の不法侵入者のくせに、お屋敷の床を汚したりなんかしたら。どんな家庭で躾をされたんだ、と白い目で見られること間違いなし。まあ事実ろくに行儀作法とか一般常識とか。親から教えられた記憶も一切ないが。 彼はわたしが家の中に入ったのを見届けると、無頓着な態度でさっさと廊下を歩き出した。急いで靴を綺麗にし終えるとその背中を追う。冗談じゃなく彼を見失うと迷子になる、おそらく。彼の靴音がこつこつと上に反響するのを耳にして恐るおそる上目遣いに頭上を見上げた。…天井、たっか。 廊下の幅も広い。ほんとにわたしの知ってる範囲だとこれ、美術館とかなんかの公共施設だよ。こんなのが自分の家かぁ。これで寛げるのかな、ここんちの人? まあ生まれたときならこんな環境なら。これが当たり前なわけだし、違和感なんて別に感じないのかも。 少し歩くとその先にはちゃんと廊下の床に絨毯が敷かれていて、冷ややかな足音が辺りに響き渡らないだけほっとする。だけど自分は絨毯汚してないかな、とそれはそれで心配になって気が気じゃない。 彼はふとそこにあるドアの前で立ち止まり、ほんの軽い力を込めて指の節でその表面を叩いた。 『…はい?誰、ツゲヒコさん?』 中から鋭いきびきびした声が返ってきた。女の人の声だ。若々しいけど、多分大人の喋り方。
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