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この人の奥さんか。何となく中はオフィスとか書斎って雰囲気。仕事中にノックされたって反応だから漠然とそう感じたのかもしれない。
彼は無感情な声で短く応えた。
「僕です」
『何なの、珍しい。…どうぞ?』
ちょっと突慳貪な返事。あんまり仲いい夫婦じゃないのかな。それとも忙しいところにいきなり声かけられたから不機嫌なのか。彼の用件がわたしに関わることだって痛いほどわかってるから思わず身を縮める。
この人はわたしの罪状を不問にしてくれるつもりだったかもだけど。何となくこの声の主はそう甘くない気がする。
何でこういう面倒を引き入れるのよ、と言わんばかりに顔を見るなり舌打ちして問答無用で警察に電話してわたしを引き渡しそう。まあ、そういう扱いを受けても。致し方ないし文句は言えないとしか。こっちは不満言う筋合いなんかないんだけど、そりゃ。
彼はその声の微かな棘に全く動じた風もなく静かにドアを開けて覗き込んだ。わたしは身を乗り出す気にもなれず大人しくその背後でかしこまって展開を待つ。
「すみません、お仕事中。…お手数ですが。この人を頼みます」
「人?誰のこと。…お客様?」
中でかた、と音がして人が近づいてくる気配がした。この場でのわたしはただ気まずく身を縮めるよりどうしようもない。
ドアの陰からひょい、と大人の女性が何気なく顔を覗かせた。歳の頃はこの男の人とそれほど変わらないように見える。多分二十代後半、…か。三十前後かな。いかにも仕事のできそうなきびきびした目つき。化粧も板についていて隙がなく、スーツ姿が決まって見える。
彼女の目がく、と軽く見開いたのが仄暗い廊下からでも見て取れた。
「え、何。…どうしたのこの子。柘彦さんの知り合い?な訳ないか。…どこで拾ってきたのよ?外出したの、今朝?」
「あの」
拾ってきた、って猫みたいに。と思ったけど何言われてもまあ仕方ない。だけど彼(ツゲヒコさん?)がわざわざ何処かに出かけてわたしみたいなもんを攫ってきた、みたいな濡れ衣を着せられるのはいたたまれないからこっちから弁解するべきかな、と口を開きかけたそのとき。
彼が有無を言わさない静かな声できっぱりと彼女に告げた。
「…すみませんが、タオルか何かを。それから乾いた服を用意してあげてください。おそらく身体が冷え切ってると思うので。…あとは、何か温かいものを。お腹に入れてあげて」
他人に何かを言いつけることに躊躇いがない口調だ。きっと生来そういう立場であることに疑問を感じたりしない人なんだろう。全然威圧的でもきつい口振りでもないのに。こちらの背筋が自然と伸びてしまう物言い。
部屋から出てきた女性は、でもそんな彼の言葉に臆する素振りは全く見せなかった。多分普段から接してる分慣れてるんだろう。
ばっ、と彼の方へと顔を振り向けて厳しい声を出す。つられて見ると、『ツゲヒコさん』はあとは彼女に任せたので自分は関係ない、とばかりに背中を向けて廊下の先へと既に歩き出していた。
「ちょっと待って、ねえ。どうすればいいのこの子?家出少女か何か?警察へ連絡しちゃっていいわけ?」
やっぱそっか。と思わず肩を縮めるわたしの反応を知る由もないだろうに、彼は振り向くこともせず遠ざかる背中越しにはっきりと彼女に言い渡した。
彼の口から出てきた次の台詞にわたしは意表を突かれた。
「一晩外にいたと思うので。まず体調を整えて、それからきちんと事情を聞いてあげてください。家に帰りたくない理由があるのかもしれません。無理に、元の場所に戻すのは…。警察に相談するべきかどうかは。茅乃さんが判断してください」
「ちょっと、もう。…結局わたしに全部投げる気なんだから。知らないからね。こっちで勝手にどうするか決めちゃうから」
それでもわたしに視線を移して改めて気づいたように慌てた口振りになる。
「やだ、ほんとに全身びしょ濡れじゃない。そんなんじゃ風邪ひくよ。早く着替えないと。…顔色も悪いね。熱測った方がいいんじゃない?」
わたしの背中に手を添えて部屋の中へ急いで招き入れようとする。口調は突慳貪だけど悪い人ではないらしい。すっかりわたしに気を取られて、追い立てて二人で部屋に入ろうとする彼女に向けて遠くからツゲヒコ氏の声が飛んでくるのが耳に届いた。
「ともかく今は気持ちを落ち着かせてゆっくり休ませてあげてください。今後どうするかはそのあとでも大丈夫だと思います。…お手数おかけしますが。よろしくお願いします」
その女性、『茅乃さん』は一旦腹が決まればすぱっと頭を切り替えててきぱきと物事を処理し始めるタイプの人だった。こんなのわたしの仕事じゃない、とか忙しいのに押しつけられたとか後からぐちぐち言ったりしない。
多分何か操作中だったんだろう。部屋の中には開きっ放しで放置されたノートパソコンが置かれたデスクがあり、もう一つ斜向かいにある席があってそこに座ってる男の人がやや驚いた顔つきで中腰になってわたしの方を見ていた。雰囲気的に多分事務室だ。彼女のプライベートな個室ではない。
ここって会社とかなのかな。考えてみればバラ園を一般公開してるくらいだから。その運営をする人員は必要だろう。
この二人はその担当というか。責任者なのかな、とまだこの状況に適応できずに落ち着かなくぐるぐる回る頭でちらっと考えた。
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