第1章 薔薇園の精霊

3/11
前へ
/21ページ
次へ
自慢じゃないが普段うちには訪問者なんか全然ない。何かのセールスか宗教の勧誘か、ってくらいだ。まあ昼間は大概バイトに出ていてその手のものに遭う機会も大してないんだけど。 『すみません、こちらは奈月匡史さんのお宅ですね?区の税務課の者です。債権回収に参りました。財産調査させていただきますので、今から立ち入りさせて下さい』 は? 経験がないので税金の滞納は少しでも遅れるとあっという間に財産調査から差し押さえに至るってことは知らなかった。あとで考えると父親宛てにやけに目立つデザインの封筒で住民税の督促が来てたな、ってぼんやりと記憶はあったけど。 そんなの本人がここに戻ってきたときに自分でまとめて払えばいいだろとしか思ってなかったから。残されたわたしがまさかこんな目に遭うとは正直、想像もしてなかった…。 部屋の中を引っかき回してパソコンやらテレビやらにぺたぺたと札を貼っている人たちを呆然と眺めていると、開いたドアをこんこんと軽く叩いて隙間から知らない男の人が顔を覗かせてきた。 「大変だったねぇ。眞珂ちゃん、だっけ。匡史さんの娘さんだろ?いやあ、甲斐性のないお父さんを持つと苦労するよね。引きが悪いよな。気の毒にねぇ…」 何となく堅気の匂いのしない年齢不詳なその男性は、いかにも既知の仲って態度でわたしに話しかけてきた。区の職員の人たちも近所の知り合いか何かと思ったのか、お父さんに連絡がついたらここに知らせるよう言ってください。とわたしに通知を渡して去っていった。そこはかとなく自分の家じゃなくなったような空気が感じられる部屋の玄関先で、その人は底意のある笑みを浮かべてわたしに話しかけた。 「いやぁ、先を越されちゃったなぁ。あいつら公務員のくせにその辺の金貸しより断然素早くて阿漕だよね。…まあ、部屋の中をざっと見たとこ。お父さんの借りた金額はこんなもんじゃどうせ全然足りないってわかってはいたけどね」 パソコンやら電子レンジやらじゃどうしようもないよなぁ、とその人はどこか楽しげに呟いてからつとわたしを鋭い目で見下ろした。…なんか。ちょっと、ぞっとなる。 「でもまあ、あんなに楽観的にほいほいギャンブルに注ぎ込んで結構な金額借りられたのはこういうわけなのかな。若くて可愛いお嬢さんいるなら何とでもなるよね、そりゃ。…眞珂ちゃんは未成年?二十歳は越えてるかな」 「いえ、あの。…一応高校生です…」 中退寸前だけど。でも何となくそこを強調したい本能に駆られる。何を要求されるのか。世間を知らない子どもでも、漠然と嫌な予感がして…。 案の定その人は全く堪えた風もなく面白がる口調で受け流した。 「まあでも、三年生だっけ。もう十八とかでしょ?そしたら全然問題ないよ。大丈夫、高校中退した子とかいっぱいそれで稼いでるし。安全にがっつり働けるとこ紹介してあげるから。コンビニやファストフードじゃいくら頑張っても借金返すってほどもらえないでしょ?それに、これじゃ」 つ、と顎を上げてわたしの背後の室内を指し示す。 「もうここに住み続けるってわけにもいかないでしょ。家賃も勿体ないしね。紹介してあげるとこは寮もあるし、似たような身の上の子もいっぱいいるから安心だよ。…今どきの高校生なら。まさか経験ないってこともないんでしょ?」 ふと光る眼差しで上から下まで舐めるように見回されて怖気を奮う。 「まあ、同年代のガキが相手の経験じゃどのみち商売にはならないもんね。へーきへーき、ちゃんと事前の研修で手取り足取りみっちり教えてもらえるから。…なんなら今からちょっとだけ。ここで、体験講習受けてみる?」 「いえあの。…学校なんです、今から。出席日数ぎりぎりで。今日は行くって言ってあるから。…遅れると、先生から連絡来ちゃう…」 恐怖で回らない口で夢中で言い訳した。絶対にこんな人に捕まるわけにはいかない。…一旦連れていかれたら。 多分もう二度と。そこから抜け出るきっかけも掴めなくなりそう…。 実際には学校からはとっくに匙を投げられてるからわたしが登校しようがしまいが何の連絡も来るわけない。だけど不埒なことを仕掛けてるときに学校や教師から連絡を受けるのは心理的に障壁があるんじゃないか、と踏んだわたしの当てずっぽは当たらずとも遠からずだったようだ。 そいつは肩をすぼめて軽く後ずさり、あっさりと言った。 「そっか、じゃあ今日のところは無難に顔出して。しばらく休学しようと思うんですとでも自分の口から説明しといた方がいいかな。どのみちもう通えなくなる可能性が高いし。別に学歴が役に立つ職場でもないからね?」 そしたら、学校終わった頃にまたここに迎えに来るよ。と言い残してその男は去っていった。わたしは部屋の中に戻ってがくがく震える手で鍵を内側から閉めた。 もう駄目だ。限界。こんなところにこれ以上、一人では住めない。 生きるための最低限のもの以外の家財道具は全て差し押さえられて、家賃だってもう払えそうもない。その上あんな男に存在を知られて目をつけられた。 このままじゃどこか逃げられないところに閉じ込められて、身体の続く限り果てしなく絞り取られるしかないに決まってる。わたしの作った借金でもないのに。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加