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あとがどうなるかなんてもう、知ったことじゃない。一刻も早くここから逃げなきゃ。
残り少ないバイト代が入った自分名義の通帳と財布、スマホをとりあえずバッグに放り込んで。着の身着のままで慌ただしく部屋を出た。
税金だって国保だって、わたしがどうこうする義理はない。払う義務があるのは父親本人だ。どうしても取り立てる必要があるなら当人を見つけ出して何とかするだろう。
多分やばいところから借りたお金だって、娘のわたしが肩代わりしなきゃならない法律的な根拠はないんじゃないかと思うけど。連れ去られてあの手の男たちに囲まれた状態でそこを堂々と突っぱねるほどの度胸は当然わたしにはない。とにかくどんなやり方でもいい、身を隠すに限る。
落ち着いたらまた改めて身の振り方をゆっくりと考えればいい。
もうこの部屋に帰ることはないかもしれないな。と微かな痛みを胸の奥に覚えつつわたしは震える脚を必死に交互に運んで何とか駅まで辿り着き、行き先も確認せずにとりあえず来た列車に飛び乗った。
平日の昼間の車両はがらがらに空いていた。わたしは席について震える喉を何とか落ち着かせ、膝に乗せたバッグをぎゅっと握りしめてからしばらく周囲を伺った。どうやらあの男がどこかに潜んでてわたしの跡をつけた様子はない。その足でわたしが逃げ出すかも、とまでは考えていなかったようだ。
普通の頭があればどこまでも走って逃げるに決まってる。ほんとに学校に行く必要があったとしても、そのあとあいつが待ってるってわかっててのこのこ家に帰ろうなんて思わないよ。
まあだからといって。このあと目指す場所も全然何の当てもないままなんだけどさ…。
そこでようやく人心地ついて、顔を上げてドアの上に表示されてる行き先を確認する気になった。
どうやらもう少しすると隣の県に入る。東京を出て郊外の方へと向かってるわけだ。わたしはあまり東京の外側の地理に明るくない。遠出をしたこともないし周辺の県に知り合いもいない。
ていうかこういうときに頼りにする親類とか信頼できる大人とかもそもそもいない。いたらとっくに相談してたと思う。両親は普通の家族ぐるみの人付き合いをするようなタイプではなかった。
まあつまりどっち方面に向かっても特に困るとか問題があるとかもないってことだけど。どうせ当てもないならどこに到着しても同じ。今夜どうするかも何も決まってない。
心細く頼りなく感じてもおかしくないはずなのに。どうしてかわたしの胸の奥から清々しいような、広々とした気持ちが溢れてきた。
思えばこれまで背負わなくていいものを何故だか外せない、大切な荷物みたいに疑問も覚えずにずっと我慢して背中に乗せていた。
別にあの家も家族も、わたしが作り上げた責任持たなきゃいけないものじゃなかった。なのに母親も捨てた、父親も放り出した誰も帰ってこない部屋の家賃を工面してまで何とか家庭を維持しようとして。誰もわたしにそうしろって言ったわけでもないのに。
あのまま放置して部屋の中のものを処分されて契約が切れて帰るところがなくなってもわたし自身には何の痛みもないんだ。自分の全財産はここに持ってきたし、学校だってどうせあのままじゃ卒業できる見込みもなかった。こうやって逃げ出したからって失うものなんて別に何もない。
あの男も言ってたけど、住み込みで働ける職場だって探せば全然ないわけでもないだろう。風俗じゃなくたって寮とかある仕事、何かしらあると思う。そういうのを見つけて働けばいい。
未成年で連帯保証人になってるわけでもないんだから親の借金を返す義務もないはずだし。わたし一人食べてくくらいならきっと何とかやっていける。
そう自分に言い聞かせて背もたれに身を埋め、深く息をついて目を閉じた。
…普通に考えたら。まず初日で新しいバイトとか就職先を決めるのは難しいから、今夜はとりあえずネカフェとかに泊まるのがいいんだろうな。そう頭では考えるけど。
たまたま郊外へと電車が向かってるせいか、窓の外に見えてきたきらきらと輝く濃く鮮やかな緑が眩しくて、今からわざわざ都心の方へと戻りたいって気にならない。ごちゃごちゃした都会の人混みの中にいる方が紛れられて、目立たずに身を隠して生きていくには適してるってわかってるのに。
湧き立つような、弾ける思いがむくむくと内側から自ずと膨らんで口から溢れるような笑顔になって止められない。明日からのことはとにかく置いても、今日はこの光をたっぷり浴びて自然の中で自由な気分を満喫したいの。ごみごみした街中に戻りたくない。
一日くらい後先考えずにゆっくり過ごしてもいいだろう。外の空気をいっぱい吸って、陽の光の下で思いきり身体を伸ばしたかった。
わたしは車両ががら空きで近くの座席に人が座ってないのをいいことに、少しお行儀悪くぐっと上体を捻って背後の窓から見える流れていく景色をしばらく眺めていた。
思えばここずっと長いこと、自然がいっぱいの場所できれいな澄んだ空気を吸いながら歩く機会なんてなかった気がする。最後は中学の遠足とか、校外学習のときくらいかな。
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