第1章 薔薇園の精霊

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隣の県に入ってからそれほど時間が経った気はしないのに、それでも見たところ車窓の外の景色はもうだいぶ緑の割合が多い。 東京から出てそれほどまだ距離は進んでないと思うけど。漠然と想像してたよりこっちのエリアはまだ自然が残ってて、土地の起伏もあるみたいだ。丘陵地の合間を縫って電車が進行してるように見える。自分がどこにいるか知らなかったらまるで観光地に来てるような気分。 わたしは身体を捻ったまま弾んだ気持ちで前方から次々と流れてくる樹々の波を飽かず見送っていた。家を出てくるときは頭の端で、自分はこんな最悪の状況なのにそんなの関係ないと言わんばかりの能天気な快晴がちょっと恨めしいような気がしてたけど。 梅雨入り寸前の最後の時季の、初夏じみた惜しげもない日光が溢れている明るい天候でやっぱりよかったと思う。どんより重く垂れ込めた日だったら、もしかしてずーんと将来のプレッシャーをナチュラルに感じて押し潰された気持ちになってたかも。 とにかく今は、久しぶりに陽の光をたくさん浴びて外の空気を吸おう、って気になれてるから。今日はその気分に従って流れに乗ってみようと思う。 改めてその時点でドアの上の電光表示を見ると、もう全くわたしには馴染みのない知らない駅名がそこにあった。慌ただしく乗車してから人心地つくまでに実は自分で感じてたより長い時間が経ってたのかな。と今さらに気がついて、わたしはそろそろこの辺で降りてみるか。と速度が緩み始めるのを感じて思いきって座席から腰を浮かせた。 「…わ」 思わず小さく開けた口から微かな声が漏れる。当てずっぽで降りるのを選んだ駅の改札を出て信じられない思いでぐるりと首を回す。駅の周囲には、びっくりするくらい何もなかった。 一応車を回せる小さなロータリーがあって。その真ん中の島にいくつかバス停がある。だけど店とかは想像以上にない。コンビニが一軒とあとは牛丼屋、ドラッグストアくらいか。 なんか一日に数本しか電車が停まらない地方の過疎地の駅みたい。ほんとにここは東京の隣の◯◯県か? もっと都内と変わらないくらい普通に都会なとこだと思ってた…。 まあ、駅前にネットカフェとかはなさそうだけど。わたしは目の前の道を渡った先に広がってるこんもりした緑の山を見て気を取り直した。 今日の気分にはこのくらいひと気のない場所の方がぴったりなんだし。 それにたまたま全く聞き覚えのない名前の駅に降りたからここまで何もないだけで。あとでもう一度駅に戻って少し都心の方へ移動するか、それとも更に下って急行の停まる大きな駅まで進めば。きっと泊まるところや新しい仕事を見つけるチャンスもあると思う。でも、今はすぐ人混みに戻る気にはなれない。 しばらくこの辺りを散策してみよう。 そうは言っても全く目的地がないとどっちを目指せばいいのかもわからない。一応まだスマホは電池残量あるし。とマップを開いて確かめてみても、山側とは反対の方に大きな道路があってそっち沿いに全国チェーンの大型店舗がいろいろとあるみたいだけど。 目の前に広がってる濃い新緑の山の方には。特にふらっと訪れることのできるちょっとした公園や登山道や、見晴らし台なんかは特に設置されてもいないのかな…。 ふと振り向いて駅の構内を見渡すと、周辺の名所を紹介するパンフレットや地図などが置かれている棚がある。そうだよね、どんなマイナーな場所でもこういうの意外とちゃんと作られてるもんだし。 ようこそ●●へ、と駅名が書かれたマップを手に取ろうと近づく。近所の店や公共の施設なんかがそれぞれ独自に発行してるリーフレットも何種類かそこに差し込まれていた。ごそごそと棚を探っていろいろと試しすがめつしていると、案内所の窓からひょいと駅員さんが顔を出したのでぎょっとなってぴょこんと心臓が跳ね上がった。…いや、にこにこの表情からして多分親切心からなのかもだけど。いきなりはやめてよ…。 そこそこの年配なのかな、と見える彼は人好きのする親しみ深い声でわたしに気さくに話しかけてくれた。 「お、観光ですか?いいところでしょ、何もなくて。まあ緑と自然だけはたっぷりだけどね」 地元を貶してんのかな、褒めてんのかな。まあこの人は鉄道会社の社員でここが勤務地なだけだから。ここ出身でも在住でもない可能性が高い。それでも毎日通ってればおそらく愛着は湧くだろうけど。 せっかくなので何かとっかかりの情報を、と考えたのとあとは声をかけてくれた目の前の人を無視できないという消極的な理由からわたしは彼に応じて返事した。 「何となく緑と山がきれいだな、って思って。散策したくなってふらっと降りたんですけど。公園とか遊歩道みたいなのってないんですか」 彼は愛想のいい笑みを浮かべて改めてわたしを見た。 「学生さん?東京から来たのかな。この辺りは特に詳しくないの」 多分大学生と思われてる。まあ平日の昼間ふらふらしてられる身分て他にはあまり考えられないからな。実際一応そろそろ十八になるし、多少子どもっぽく見えても誤差の範囲内で済む。
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