第1章 薔薇園の精霊

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わたしはせいぜい落ち着き払って見えるようにはきはきとして答えた。 「はい、東京から来ました。今日はこっち方面に用事があって。時間が余ってしまったので…。そういえばしばらく自然の中を歩いてないなぁって思って」 「わかるよ、電車の中から見るとこの辺すごく景色がきれいだもんね。でも実はこう見えて割と普通の住宅地でね。山も持ち主のいる里山が多いんだよ。だから観光地ってわけでもないんだよね。…あ。そうだ」 彼はわたしが抱えてるリーフレットを目にして急にぱっと顔を輝かせた。 「緑いっぱいの自然の中を散策できればいいんだよね?ちょうどよかった、ナイスタイミング。もうぎりぎりシーズン終わりだけど…。ほら。こういうのあるんだよね」 そう言って一瞬奥に引っ込み、一枚のリーフレットを手にもう一度窓口から顔を出した。それを差し出しながら説明してくれる。 「ね?いいでしょ。今年オープンしたばっかりなんだけど。もともと個人の方の邸宅なんだよ。そこのお庭をこうやって開放してるわけ」 見ると棚の中にはなかったリーフレットだ。鮮やかな薔薇の花がいっぱいに咲き乱れた庭園の写真が表紙に使われている。わたしは手を伸ばしてそれを受け取り視線を這わせた。…『能條邸バラ園』。 写真は薔薇の花々を大きく写し出しているがその奥に邸宅らしき建物がちらと見えている。いかにもといった感じの洋館だ。わたしはそれを眺めつつ親切な駅員さんに重ねて質問してみた。 「今は持ち主さんはここに住んでないんですか。昔の名家の方のお家を庭園として一般公開してるってこと?」 彼は何でもないことみたいにあっさり手を振って答えた。 「いや、能條さんは今でもここに住んでいらっしゃるよ。庭園だけを季節限定で開放してるんだよね。何でも薔薇はどっちみち手がかかるから、どうせ維持するなら公開して入場料を…、あ。だから無料ってわけじゃないんだ。確か200円か300円くらいだったと思うけど。そのくらいお金かかってもよければだけどね」 「大丈夫です」 正直そんなに余裕はないけど。今さら数百円くらい後生大事にしても仕方ない。どちらにしろ何か仕事しないと今後の生活は成り立たないし。…それに。 わたしの頭にふとその庭園の有効な活用法がむくむくと浮かんできた。幸い今日はいい天気過ぎて、こうやってじっと佇んでてもじりじりと暑さを感じるくらい。この季節はもう朝晩冷え込むこともないし。 脳裏にある悪だくみを悟られないよう素知らぬ涼しい顔でそのリーフレットを手にして頷いてみせた。 「ここからは歩いていけるんですね。ありがとうございます、行ってみます。今日は幸いいい天気だし。薔薇なんてここしばらくじっくり観た覚えないから」 彼は機嫌のいい笑顔でひらひらと手を振って応えてくれた。 「僕も開園してすぐに一度顔出してみたけど、思ってたより広くてびっくりしたよ。個人の家とは思えないくらいだよ。きっとすごい歴史あるお金持ちのお宅なんだろうなぁって。…あ、飲み物とかはコンビニかどっかで前もって買っていくといいよ。何でもカフェを開く予定はあるらしいけど今シーズンには間に合わなくて、只今営為準備中なんだってさ。…それなりに歩くから。今日は暑いし、途中で熱中症にならないよう気をつけて」 「ありがとうございます。ご丁寧に、助かりました」 わたしは何度も頭を下げて、手を振って別れを告げてくれるその人にお礼を言ってその場を後にした。 「…ひ、やぁ…」 息が切れる。わたしはじりじりと頭の天辺を炙る日光を気にして上に手のひらをかざした。…黒髪が陽の熱を吸収して、熱い。 道の前方にも後方にも人っ子ひとり見当たらない。わたしは切れ切れに呟き、こめかみに滲んだ汗を手の甲で拭った。 「こんなに歩くんな、ら。…そうだって教えといてよ…」 今でも個人の住宅だって話は本当らしく、スマホのマップアプリで見ても『能條バラ園』というポイントは検索できなかった。 リーフレットに記載されてた住所を入力してそこを目指すけど。歩けども歩けども全然辿りつく気配もない。それに結構な登り道だ。 今でも人が住んでるって聞いたからもっと人や車通りの多い国道沿いの平坦な地域にあるのかと勝手に思ってた。まさに電車の窓から見えた聳え立つすぐそこの山地、その中腹辺りじゃないか! 「そのお金持ちの家の人…、駅から。毎日こうやって歩いてるの、かなぁ…」 まるでハイキングだ。ちょっと立ち止まってバッグから駅前のコンビニで買った水を出し、キャップをきゅっと開けて一口、二口と飲む。一応もう一本買ってあるけど。あまり飲み過ぎないようにしよう。一度庭園に入ったらもう買い足せないかもしれない。自販機くらいあればいいなとは思うけど、期待が外れたときが怖い。 道自体はハイキングなんて雰囲気ゼロのごく普通の舗装されたアスファルトの車道だ。だけどだんだん高くなっていく視点から、下の駅舎がぽつんと俯瞰できた時はちょっと心が浮き立った。…こんなに登ってきたんだなぁ。わたし、頑張った。
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