第1章 薔薇園の精霊

8/11
前へ
/21ページ
次へ
しばらく歩き回って園内を点検してみたけど、結局全く警備員や作業をする人には出会わなかった。この分なら。 わたしはようやく警戒を解いてひとまず目についた白い華奢なベンチに腰を下ろした。何とか閉園時間までを見つからずにやり過ごせれば。今夜はここで一晩泊まれそうに思える。 ほんの思いつきで企てた計画だけど、予想してたより問題なく上手くいきそうだ。 そもそも入園料が三百円、と聞いて一瞬どうしようかなと迷わなくはなかった。だけど、気を取り直して考えてみると。 一晩ネットカフェで過ごすことを考えると全然大した値段じゃない気がする。もちろん庭園なんだから屋根も壁もない。だけど今日は幸い既に初夏としか思えない陽気だ。 じっとしてても少し汗ばむくらい。夜ももう大して冷え込む時季じゃないし、今夜だけなら何とかなりそうに思える。 それに普通の公園で野宿なんて、さすがにわたしもそこまでの度胸はないが。入園料を取るような施設ならふらっと近づいてくる得体の知れない人とかもまず入り込めないだろう。わたしみたいに確信犯で潜り込んでる奴がそうたくさん存在してるとは思えない。そういう意味では露天でも意外に安全な場所なんじゃないだろうか。人を襲うような野生動物もまずいないだろうし。 肩にかけたバッグを膝に下ろして中身を確かめる。ちゃんとそのつもりで事前に駅前のコンビニに寄り、水のペットボトルだけじゃなく夕食にするつもりのパンも買っておいた。これで食事と宿泊費が済むと思えば大した額じゃない。少ない量の食べ物で間に合わせるのは慣れてるからこれで明日の朝まで充分保つ。よし、準備完了。 ほっとしてひとまず飲みかけの水を取り出してキャップを外し、一口含む。まだ冷たさの残る液体が喉の奥を通って胸もとを降りていくのがわかった。 まだ油断は禁物。さすがに閉園間際になったら鍵をかける前に係員の人が点検のために巡回してくるかもしれないし。そのときに見咎められたらせっかくの企てもぽしゃって一巻の終わりだ。 警戒を怠らずに隠れられるところを今のうちから探して、閉園のしばらく前から身を潜めておいた方が間違いないだろう。 わたしはキャップをきっちり閉めた水のボトルを再びバッグに放り込み、もっと園内を探索して回るために気合いを入れてよっ、と腰を上げた。 泥棒猫になった気分にならなくもなかったが、夕刻が近づいてきたタイミングでわたしは自意識と恥をかき捨てて割り切り、薔薇の生い茂る藪の中に無理やり入り込んで静かに身を潜めた。 まさかこんなトゲトゲの荊が生い繁る藪に自ら突っ込んで隠れている人間がいるとはバラ園の従業員だってよもや思うまい。 シーズン的にナチュラルに薄着なので潜り込む過程で脛やら腕やらあちこち軽くひっかいた。その体験から断言できるが、よほど追い詰められた事情でもなきゃあえてこんなとこに身を隠す輩なんかそうそういるわけないと思う。 そういう意味でもバラ園てのは隠れ場所としていい線だと実感する。前もって計画したり下調べもしてなくてほんの偶然で辿り着いたけど、わたしは運がよかった。ありがとう親切な駅員さん。 屋外とはいえ呼吸音から気づかれたらことだ。と考えてそれなりに息を潜めてじっと辺りの様子を伺っていたが、結局陽が落ちるまで係員は見回りに来なかったように思う。必死に気を張り詰めて気配を殺してて損した。 ポケットからバッテリーがだいぶ減りつつあるスマホを取り出して時間をこの目で確かめ、閉園時間がとうに過ぎたことを確認してやや肩の力が抜ける。仮にも入園料を取ってる施設ならもう少しお客の動向に留意するもんかと思ってた。こんな大雑把な管理でよく自分ちの庭一般公開していられるな。怪しい人物に夜中にお屋敷に侵入されないか? まあ、ありがたいことにまだ住人がいると思しき洋館のある方へは、公開されてるエリアと柵で仕切られてて近寄れない。それは逆にあの家にいる人からはこっちの様子も遠くて察知できないってことだから。お互いにウィンウィンだ。 別にこのまま何日もここに居着こうってわけじゃないんだし。今夜ひと晩だけ居場所を提供してくれればひっそりと人知れずまた退出していくだけ。誰にも迷惑をかける気はない。 そうしてるうちに次第にとっぷりと日が暮れてきた。時季は六月、夏至も近いから季節柄なかなか暗くならないのには正直参った。 やっぱり無駄に母屋からの視線を集めたくはないし。暗闇に紛れて行動するに越したことない。そう考えて頑張って相当の時間藪に潜んだまま我慢して、真っ暗になってからようやく慎重にそこから這い出した。ずっと狭いとこにしゃがみっきりだったから、さすがに足腰がぐきぐきと鳴りそうなほど痛む。 発見されるのを徹底的に避けたければそりゃ、荊の中でずっと固まってるに越したことないに決まってる。だけどそれじゃ朝まで身体が保たないとつくづく思う。 閉めきった夜のバラ園にはろくに灯りもないし。足許だけをスマホの光で用心深く照らして進めば洋館の住人の目には留まらずに済むだろう。ここまで来れば多分大丈夫。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加