第1章 薔薇園の精霊

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わたしはスマホの画面を地面に向けて目立たないよう慎重に闇の中を進んだ。目指すは昼間のうちに当たりをつけておいた庭園の隅の方にあるものだ。 ここに来る前は私邸の庭園がこれほど広く公開されてるとは思わなかったから、せいぜいベンチの上で夜が明かせれば御の字と考えてた。だけど、想像してたよりこれは本格的なバラ園だ。 一世代か二世代で成り上がった即成の小金持ちの邸宅のレベルじゃない。世間をほとんど知らない中退寸前の高校生の目から見ても、この能條家ってのは何代も続いた名門の家系なんだろうなってことははっきりわかる。少なくともこのお屋敷と庭園は何十年、下手したら百年くらいの時間をかけて手入れされてきたものなんだろうとしか。 これでもかと咲き誇る大量の薔薇もそうだけど何より樹木は相当な年数を経た貫禄があるし。置かれてるベンチも年季が入ったクラシックなデザインのものだし、そこここに芸術的な価値は知らねど見たところずっしりと古びた重厚な彫像もある。 どう見ても浅い年数でこんな庭を作れたはずがない。もし万一能條さんという人が一代でのし上がった成金さんだとしたら、この洋館と庭園は没落した名家からお金で譲り受けたものだろう。 つい最近までここは一般に公開されてもいなかったって話だった。つまり、観光客からお金を取るためでも他人に見せびらかす目的でもなくこれだけの庭を丹精込めて、個人で何十年も維持し続けてきたわけだ。そりゃ、暮らしに相応の余裕がなきゃ続けていけることじゃない。 他所の人に見せるつもりもなかっただろうに。彫刻やら瀟洒な噴水やら、豪奢に造り込んであるのはさすがだなぁと半分呆れながら探索を続けていたときにばっちり、わたしの目的に叶うものを発見したのだ。 …あった。まだ明るい時間帯に、ここで夜を明かそうと当たりをつけておいたところ。 それは何とも凝ったデザインの、まるで鳥籠のような東屋だった。 壁で囲まれてこそいないけど細かい柱がきっちり並んでいて、外からは内部がちょっと見えにくい。風通しは良さそうだけど素通しではないから中にいると落ち着けそうな造りだ。 その辺の公園によくある四本柱にとりあえず屋根を乗っけただけのものとは全然違う。ちょっとした小屋くらいの丁寧な仕事だと思う。 こんなしっかり造られた代物、外の人に公開して自慢する予定もないのにあえてわざわざ建てるなんて。ほんとに資産家の余裕というか、役に立つか立たないかより完璧な庭のデザインを優先したんだなぁと改めて実感するより他ない。 でもおかげで快適にひと晩過ごせそうだ。恩恵をばっちり受けてるんだから、わたしの方に文句を言いたい謂れなんか全くない。お金持ちの凝り性、なかなかいいじゃないですか。 一応周囲に気を配りつつ、光が目立たないようスマホの表を上げずに地面だけを照らして記憶を頼りに歩いて東屋へと辿り着いた。 中に入る前に念のため、一応辺りにさっと視線を向けて周囲を確認した。さすがに閉園時間もだいぶ過ぎたこんな時分に誰か見回りに来るかも、って本気で心配したわけでもないが。 当たり前だけど人間のみならず何か野生動物の気配もない。まあ細かい虫が飛んだりその辺をごそごそ這い回ってるとかまでは無視しよう。多少の不快な要素は仕方ない。色とりどりに咲き乱れる薔薇に囲まれてようが、野宿は野宿だ。 ひと気のなさを確かめて安心し、ようやくわたしはその晩の仮宿へと落ち着いた。東屋の内側には壁に沿って造り付けのベンチが設置されている。ここで横になって寝られるな、と目論んでた通りだ。 実際にやってみるとまあ脚を伸ばして横たわるまでは無理。そりゃそうか、いくらわたしがちんちくりんだからって。ここはベッドじゃない。人が横になることは当然想定してないし。 贅沢を言う気はないので大人しく脚を縮めて丸まる。それでも雨風をある程度凌げて(降ってないし吹いてもないけど)、他人の目が届かない場所で寛げるってほんとにありがたいことだ。おまけにお金も大してかかってない。 目を閉じると遠く微かに電車が通過する振動を感じられる気がした。それ以外はしーんと鳴るような不思議な音が耳の中で低く響き続けてるのが気になるくらい。車の音も人の声も全くここまで届かない。 それに、そうやって視界をシャットアウトして周囲の世界を閉め出しじっと静かにしていると、改めて薔薇の華やかな香りがわっと全身に迫るように感じられる。くらりと酔いそうなくらい強い匂いだ。 こんな強烈な花の香りに包まれて眠ることなんて後にも先にも二度とないに違いない。今のところ十八歳の女の子としては若干酷めの人生かもしれないが。ある意味これも面白い経験ていえるかもしれないな、とどこか他人ごとみたいに能天気な考えが頭の端を掠める。 そういえばあのとき薔薇の花に囲まれて野宿したりとかもあったよなぁ、っていつか懐かしく思える日がいつか来るのか。まあとにかくこの窮状を切り抜けることができればの話だけどね、とどこか麻痺した感覚でぼんやり思い巡らしながらいつしかわたしは浅い眠りに落ちた。
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