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和食屋宇賀
広瀬宇豆彦は、「和食屋宇賀」に来ると、必ずドアの前で一旦立ち止まって軽く一礼する。
旨い料理を食べさせてくれる店に対する、感謝の気持ちの表れだ。
それから上に掲げられた看板の文字を眺める。
この一連の動作は、来るたびに行うルーティーンとなっている。
一枚板は木から切り出したままで歪だが、料理と同じで味わいがある。
毛筆で書かれた店名は、店主の直筆。とても美しい字だ。
ここは、宇賀真琴が長年の修行の末、念願叶えて構えた個人の店である。
看板一つから、自然を敬い感謝する真面目な店主の人柄が分かる。
広瀬は、旨い料理を心から愛するメシ探偵だ。体に良くて旨い食事を食べないと、頭も体も働かない。
「和食屋宇賀」は、そんな広瀬に旨い料理を食べさせてくれる大切な店だ。
「ウズちゃん、入らないの?」
傍らにいた恋人の瀬世満里奈は、いつまでも突っ立っている広瀬の背中を軽く押した。
「分かっている。焦るなよ。いつものことじゃないか」
満里奈はため息を吐いた。
「本当にここが好きよね。よく飽きないこと」
満里奈は、この店を好きではない。食材も料理も味も一流の隠れた名店だというのはよく分かっている。分かっているが、好きではない。
出来れば来たくないのだが、大好きな彼が行きたがるから、仕方なくついて来ている。
「そんなに嫌ならついてこなくていいのに」
「そうじゃないでしょ。私はあなたとデートを楽しみたいの」
この店が嫌いだからといって、広瀬と夕食を別々にする気はサラサラない。
広瀬が絶賛する味は、全くその通りで異論はない。
ただ、料理人が嫌いなのだ。
嫌いな店に入って極上の料理を食べるか、一人で侘しく食べるか。その二つを天秤にかけると、広瀬と一緒に食べる方が勝っている。
「この店の味は飽きることがない。旨い料理は体が喜ぶ。体が喜べば元気が出る、活力が湧いてくる。食べずに生きていられるか」
ドアを開ける直前になると、満里奈は、先ほどまで離れていたのに急にべったりと腕を組んできた。
広瀬がドアを開けると、「いらっしゃいませ!」と店主・宇賀真琴の元気な声が飛んできた。
細めのドアに腕を組んだ二人の大人が通り抜けられる幅はない。
「満里奈、離れてくれ」
「えー、何で?」
「腕を組んだままじゃ入れないだろう」
「本当だわ。狭いってことを忘れてた。これじゃ入れないわね」
満里奈は、わざと聴こえるように大声で言うと、広瀬から離れた。
この店は、ビルとビルの隙間に建つ、ものすごく細い建物の一階にある。
中に入るとかなり狭いが、狭いことと料理の腕は別だと、広瀬は気にしていない。狭くとも真琴のこだわりが随所に見られる洒落た店だ。
店内は8人掛けの檜カウンターのみ。客席の後ろも、一人立つのがやっとですれ違うこともできない。
カウンターを挟んで反対側が調理場。
目の前で真琴が腕を振るう姿を、日本酒を飲みながら眺めることも広瀬の楽しみの一つ。
自然と耳に入る調理中の音や漂う匂いが食欲を増進してくれる。
食材情報などを聞くのも好きで、真琴との会話は酒の肴である。
壁に並ぶ手書きメニューは、看板同様真琴による達筆で、目に楽しめる。
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