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「では、頂きます」
二人はそれぞれの皿から料理を食べていく。
「このアイナメ、身が甘くてよく引き締まっていて生きがいい。旨い」
広瀬が笑顔になった。
刺身だけど温かい炙り刺しは、広瀬のお気に入りの調理法であり、そのことを知っていた真琴がアイナメを市場で見かけた時に、これを炙り刺しにすれば常連の広瀬がきっと喜んでくれるだろうと、彼の笑顔を想像して仕入れたものだ。
この店を構えてから一年。広瀬は週に3、4回は通ってくれる大切な常連様で、好みの食材や調理法をよく知っている。――とは言っても、食べられないものや苦手な食材のない広瀬なので苦労はない。出せば何でも美味しい美味しいと喜んで食べてくれるから、作り甲斐がある。
広瀬は、繊細な味付けを敏感に感じ取る舌を持ち、食への感謝を持っている、お店にとって嬉しいお客様なのだ。
開店直後は何でも一人で切り盛りしなければならなくて、余裕のなさから料理を落としたり、お酒をこぼしたりと、いろいろな面で失敗もした。
呆れもせずに来てくれた広瀬には、何度精神的に救われたか分からない
当初は一人で来ていたが、いつしか満里奈という恋人を連れてくるようになった。
目の前で交わされる二人の会話が耳に入り、広瀬が探偵を生業にしていることも自然と知ることとなった。
満里奈が自分を恋のライバルとして敵視していることには、うすうす感づいている。
真琴にその気はないので杞憂なのだが、どうやら料理に自信がないようで、この店の味を愛している広瀬を私に取られてしまうんじゃないかと、かなり心配しているらしい。
腕を組んだ姿を見せつけるのも当てつけだ。
本音を言えば、不愉快だし、入店してほしくない。
向こうだって、この店に来たくないはず。
広瀬にしてみれば、満里奈と付き合う前から通っている馴染みの店。彼女に反対される筋合いはないと突っぱねていることは分かる。
広瀬が連れてくるというよりは、勝手についてきているに違いない。それで、何かと店の悪口を吹き込もうとしている。
その結果、店の尊厳を傷つける言動が端々に出てくる。
嫌々ながらもついて来る理由は、二人の仲を監視するためと、ついでに美味しい料理を食べられるからだ。
彼女のペースに乗せられて、大切な常連客の広瀬の顔に泥を塗らないよう、それだけを心に留めて接客している。
(こちらは美味しい料理をお出しするだけ。それに専念すれば、彼女もいずれ分かってくれるはず)
真琴はそう信じて精進するのみだ。
「旬の野菜の天ぷらです」
カウンター越しに天ぷら盛り合わせを差し出すと、気を利かせた広瀬が受け取った。その際に、お互いの手が触れ合ってしまった。
途端に、満里奈の顔が険しくなる。
当の広瀬は、鈍感で何にも気付いていない。
あんなに分かりやすい言動を取っているのに、何にも気づいていないことが真琴には不思議だ。
(こういうのって、朴念仁って言うんだっけ? それとも、唐変木?)
広瀬はそんな満里奈を嫌がらないし注意もしない。
(探偵という職業柄、洞察力は優れていると思うけど、恋は盲目とでも言うのかしら)
とても不思議なことだ。
「真琴さん、場所を変えたくないので、中尾隆司さんとここで話してもいいかな」
「構いませんよ。今夜は他に予約もないし、貸し切りにしましょう」
真琴は、外に貸し切りの札を出した。
今夜は初めて広瀬の仕事ぶりを見る事ができそうだ。
どのような手腕を見せてくれるのか、少しだけ楽しみでもある。
酔っぱらった満里奈が広瀬の真琴に対する呼び方について文句をつけた。
「ねえ、曲がりなりにもこの店のオーナー兼板長なんだから、ちゃんと肩書で呼ばないと失礼じゃない?」
「そうかな」
「名前で構いません。広瀬様は馴染みのお客様ですから、迷惑なんてことはありません」
「そういう馴れ合いは良くないわよ。親しき中にも礼儀ありって言うじゃない。大将でいいんじゃない? ねえ、大将」
真琴が黙っていると、「大将が気に入らないなら、板さんはどう?」と、変えた。
「じゃあ、満里奈様はそれでお願いします」
「ふーんだ。じゃあこれからは板さんって呼ぶから」
やり取りを見ていた広瀬が「プッ」と噴き出した。
満里奈は、それを見て「フフン」と、鼻で笑った。
「やっぱ大将にする。大将!」
「もういいだろう。出入り禁止になったらどうする」
広瀬が笑いながらもようやく注意した。
「真琴さん、すみません。だいぶ酔いが回ったようです。明日にはきっと今の話を忘れていると思います」
「広瀬様を出入り禁止にすることはございません。どうか、お気になさらずに」
ただし、お連れ様は別ですと、真琴は喉まで出掛かったが飲み込んだ。
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